私とカトリック

2012年8月14日 (火)

聖母の騎士 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父

「体を殺しても、魂を殺すことのできない者たちを恐れてはならない。」(マタイによる福音書 10:28)

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 」(ヨハネによる福音書 15:13)

 

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今年も、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の記念日である8月14日が近づきました。私たち日本のカトリック教徒にとって、特別に愛すべき存在である20世紀の聖人、聖コルベ神父を皆様はご存知ですか?ご存知の無い方は、下記をご参照下さい。

コルベ神父について
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=081401

聖マキシミリアノ・コルベ(Wikipedia)

私が18歳で、東京・高円寺教会において洗礼を受けた頃、初めて読んだ聖人伝は、中世イタリアの清貧の聖人、アシジの聖フランシスコについてのものでした。そして、聖フランシスコについての素晴らしい伝記映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」を見て、言葉で言い表せないほどにとても感動しました。ですから、私は自分の洗礼名にアシジの聖フランシスコをいただきました。

そして、次に出会った聖人伝が、コンベンツァル・フランシスコ会(OFM.Conv)の修道司祭であり、近代における聖フランシスコの弟子、聖母の騎士会を設立した聖コルベ神父についての著作でした。私は、コルベ神父様の聖母への愛と献身、長崎での宣教とアウシュビッツでの殉教の生涯を初めて知り、強い衝撃を受けました。そして、彼の聖母への燃える愛と人々の救霊への熱意を知り、また、カトリック信仰への強い確信が、世の支配と悪の勢力に対してどれほどの力強い勝利を収めるのかを知りました。

20代前半の頃、私はコルベ神父様の生涯について日本語で書かれた著作で手に入るものを全て購入し、読みふけった思い出があります。特に、聖母の騎士社から出版されている聖母文庫の「M・コルベ神父のことば集 無原罪の聖母」は、現在も繰り返し読んでいる私の愛読書です。この著作は、聖コルベ神父の死の後、1944年にポーランドのニエポカラヌフ(無原罪の聖母の園)で出版されたものの翻訳本です。聖コルベ神父様が生前に残されたことばが集められています。編著は、聖コルベ神父と一緒に日本で生活された故セルギウス・ペシェク修道士です。

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「無原罪の聖母、これが私たちの理想です。私たちが聖母に近づき、聖母に似た者となり、全く無制限に聖母の所有物になること、また聖母が私たちの心と全存在を支配し、私たちにおいて、私たちを通して生き、かつ働き、私たちの心を持って神を愛されること、これが私たちの理想です。

周囲の人々の為、汚れなき聖母の輝きとなり、聖母のために人々の魂を得、汚れなき聖母によって隣人の心も開かれ、人種、国、言語の区別なく、現在存在し、また世の終わりまで存在するであろう世のすべての人の心において、汚れなき聖母が女王たりたもうように努めることは、私たちの理想であります。聖母の命が私たちにおいて、毎日、毎時間、毎瞬間、そして限りなく深まっていくこと、これが私たちの理想です。

聖母のために自分の生命を捧げることは、聖母に対する私たちの愛の極みです。  」

                     聖コルベ神父の言葉 (聖母の騎士社 聖母文庫 「無原罪の聖母」より)

今も、私は毎年8月になると、このコルベ神父様のことば集「無原罪の聖母」を書棚から取り出して、黙想します。毎年8月14日の聖コルベ神父の記念日は、私にとって、聖母への愛と奉献の心を更新する大切な日なのです。これは、20年以上続いている私の夏の習慣です。

コルベ神父様は私に、聖母を愛すること、そして、どのように聖母を愛するかを教えてくれました。ですから、私が聖母を愛することを最初に教えられたのは、コルベ神父様の生涯と言葉によってなのです。

私は、その後、仕事の関係で世田谷区の駒沢で生活することとなり、フランシスコ会(OFM)ローマ管区のイタリア人司祭の指導する東京・三軒茶屋教会で在世フランシスコ会の活動に参加し、同じ聖フランシスコ会系列の仲間であるコンベンツァル・フランシスコ会(OFM.Conv)、すなわちコルベ神父様が日本にもたらしてくれた聖母の騎士の司祭、神学生たちとも交流を持ちました。毎月、聖母の騎士の関町修道院で集まりがあり、聖フランシスコの精神についての学びがありました。

私は24歳の時に、聖コルベ神父様の足跡をたどり、大浦天主堂や本河内の聖母の騎士修道院を訪問しました。聖母の騎士修道院では、聖コルベ神父様を身近に知っていたセルギウス修道士が案内してくれ、聖コルベ神父と一緒に長崎に来たゼノ修道士たちが建設したルルドの聖母の洞窟へ連れて行ってくれました。聖母の騎士のルルドは、不思議で清らかな静けさに満ちていて、とても印象深い場所でした。今もはっきりと覚えています。また、少年の時に聖コルベ神父と触れ合った体験を持つ中村修道士が、私たちにちゃんぽんをご馳走してくれました。本当に懐かしく、良い思い出です。

コルベ神父様は聖母の熱愛者として知られ、その生涯は、少年期に聖母を幻に見たことに特徴づけられるように、聖母に決定的に導かれ支配されたものであり、全てを無原罪の聖母の勝利と、聖母を通しての人類の霊魂の救済、聖母による全世界の霊魂の獲得のために捧げられたものでした。

そして、その単純と清貧の精神、聖母と霊魂の救済へのセラフィム(熾天使)的な燃える愛、そして騎士道精神は、フランシスカン・スピリットの近代におけるひとつの決定的な体現でもありました。

私たちは、聖コルベ神父の生涯の証しを知るとき、確信に満ちた信仰の美しい素晴らしさと、隣人と世界を愛することの崇高さと、真理と救霊に奉仕する戦いの気高さを、魂で感じることができます。

聖コルベ神父の生涯と死を、人道的なヒューマニズムの観点から世界中の様々な立場の人々が賞賛しますが、しかし、聖コルベ神父の生涯が真に示したのは、単なるヒューマニズムではなく、神と聖母への全面的な信頼と委託がもたらす勝利、信仰と希望と愛の勝利なのです。聖コルベ神父の生涯の歩みを真に理解するためには、カトリック信仰と聖母への崇高な信心がもたらした霊的行動原理を知らなければなりません。

悪に満ちた全体主義が全てを圧迫し、支配しようとしていた20世紀の暗黒の時、信仰と愛が死を乗り越えて勝利することを聖コルベ神父は命を賭けて証し、世界の罪の闇に無原罪の聖母が完全に勝利されることを預言的に示されました。

そして、私たち日本人は、特に聖コルベ神父様を身近に感じ、感謝しなければいけないと思います。大日本帝国による暗黒の闇が迫ろうとしていた時、聖母の騎士・聖コルベ神父様は、長崎に来てくれたのです。そして日本の救霊を願い、日本のために聖母の騎士の精神を伝えてくれました。聖母マリアは、どれほど日本を愛し、救いたいと願っておられたことでしょうか。

20世紀の暗黒に、無原罪の聖母の騎士・聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父は、信仰と愛の勝利を成し遂げられました。汚れなき聖母は、聖コルベ神父を通して、御自身が世界の罪と悪に最終的に勝利されることを示されたのです。

「信仰薄き者、なぜ心に疑いを抱くのか?いたるところで、マリアに向かって愛と確信を奮い起こせ。そうすればすぐ、もっとも頑固な罪人の目から涙が流れ、刑務所が空になり、熱心な労働者の階層が増え、家庭は徳で香り、平和と幸福が争いと苦しみを滅ぼしてしまいます。なぜなら、その時、新しい時代となるのですから。」
                            聖コルベ神父の言葉 (聖母の騎士社 聖母文庫 「無原罪の聖母」より)

 

聖コルベ神父様、あなたのように聖母を愛することができますように。

あなたのように、どんな時にも神と聖母への全面的な信頼と委託のうちに、
力強い確信に満ちた信仰を生きられますように。

あなたのように、全世界の救霊を願う燃える心を持つことができますように。

あなたのように、聖母への奉献を通して、信仰の勝利に入ることができますように。

今年の夏も、あなたを思い、あなたに学び、あなたの人生に心から感謝いたします。

 

2012年7月11日 (水)

素晴らしい聖体訪問

皆様は、聖体訪問という素晴らしい習慣が、カトリック教会にはあるのをご存知ですか?

聖体をご存じない方々のためにご説明しますと、聖体とは、ミサの中で聖別され、聖変化されたパンとぶどう酒のうちにまことに現存される、主イエス・キリストの御体と御血のことです。

主イエスは、十字架上の死に渡される前の最後の晩餐を弟子たちと共に過ごされ、ユダヤ人の祭りである過越しの食事をされました。その時、パンとぶどう酒を分かち合われ、この聖体を制定されたのです。

「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これは私の体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くに人のために流される私の血、契約の血である。』」(マタイによる福音書 26:26-28)

この甘美な最後の晩餐の神秘の中で制定された聖体であるパンを、カトリック教会の信徒は、最後の晩餐の再現であるミサの中で拝領します。これは、2000年間続いているカトリック信仰の至宝であり、根幹です。

キリストの御体であるパンと、キリストの御血であるぶどう酒は、私たちの霊的いのちの糧となるのです。私たちのいのちが、キリストのいのちと結ばれ、私たちはキリストのいのちによって、生かされていくのです。ですから、私たちは、いつもキリストと共におり、キリストが私たちの心と霊と体の神殿の中に、住まわれます。

私たちは洗礼によって、キリストの死と復活に結ばれて罪を贖われ、新しいいのちを生き始めます。その新しいいのちを支え、養っていくのは、聖体の中にまことに現存される、キリストのいのちなのです。

そして、この聖体は、ミサの中で配られ、拝領されるだけではありません。
伝統的に、カトリック教会の聖堂の中心には、聖櫃という聖なる箱が置かれ、その中に、聖体であるパンが安置されています。ですから、カトリック教会の聖堂を皆様が訪れるなら、いつでも、キリストの御体である聖体が、出迎えてくれるのです。これは、キリストが、いつも私たちと共におられるという明確な生きたしるしです。

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御聖体が安置されている聖櫃

そして、聖堂に安置されている御聖体を訪問して礼拝する習慣のことを、聖体訪問と言います。この習慣が歴史的にカトリック教会に根付いたのは、信仰心の表明として、実に当然なことでした。そして、その訪問を霊によって促し、導くのは、御聖体のうちにまことに現存されるキリストの、愛による招きなのです。

私たちカトリック信徒は、この愛の招きを霊的に感じるなら、聖体訪問への強い渇きを感じます。聖体のうちにまことに現存されるイエスの御心は、愛の生ける泉だからです。この泉の水を飲む者は、渇きを癒され、主が共におられるという確信によって、喜びと平安に満たされます。

聖体訪問をし、聖体の前で祈り、礼拝することは、聖体のうちにまことに現存される主イエスとの霊と心の対話であり、交流、すなわちコミュニケーションです。イエスは愛のうちに聖堂の聖櫃の中に留まり、皆が訪問してくれるのを待っているのです。

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さて、カトリック信徒の皆様、私たちの日常生活では、家族や親しい友人たちと集まって食事をします。そして、時折、離れて暮らす肉親や兄弟、親戚、友人たちを訪問します。訪問して交わり、対話して共に時間を過ごすことは、何よりも素晴らしい相互の尊重と友愛、理解を生みます。

それに比べて、私たちの救い主であり、神である主イエスに対する、私たちの態度はどうでしょうか?
日曜日のミサに行き、聖餐を共にし、聖体を拝領しますが、それ以上のことは望みません。

「私は忙しいし、ミサだけで精一杯。それ以上のことを信仰に求めません。神様は、私のことを全部わかっているし、あれこれ祈りに時間をかけていたりしたら、社会生活におけるバランスが悪くなってしまいます。祈るより、社会奉仕のほうが大切だし、信仰に逃避したくありません。」と考えてはいないでしょうか?

確かに、主イエスは、私たちのことをすべてわかっていることでしょう。多忙な社会生活の中で、聖体訪問のために時間を割くことは、いくらかの自分の時間を犠牲にすることになるかもしれません。そして、「宗教の信仰にのめりこむと危険だ」と、信仰への懐疑に満ちた現代社会は教えています。

しかし、それでも主イエスは、聖堂の聖櫃の中で、静かに私たちを待っておられます。そして信仰と愛の表明と、霊的で人格的な交流を求めておられます。現代、カトリック教会では、聖体訪問をする人が、あまりにも少なくなってしまいました。多忙で合理主義に支配された現代の日本社会において、単純な信仰の表明と神との時間を優先する価値観が、失われてしまっています。日本に住むカトリック教徒も、その影響を大きく受けているのです。

皆様、ご自分の教会で、また都会のカテドラルや旅先の教会などで、ぜひ御聖体を訪問し、待っておられる主イエスにご挨拶してください。そして、心の思いや願い、悩みなどを話してみてください。誰よりもあなたを理解し、あなたの全てを知っておられる主イエスは、ずっと話を聞いてくださり、あなたを信仰の火と愛で満たし、最善の道へとあなたを導いてくださいます。時間が無いのなら、ご挨拶するだけでも良いと思います。キリストの現存への感謝と愛を、ぜひ実践的に示してください。聖体訪問は、空虚で学問的な空想ではありません。生ける神の愛の現存への、実践的な信仰の表明です。

私も日々、仕事で多忙ですが、時折、聖体訪問をすることに、昔から時間を取ってきました。特にこの習慣が身につくきっかけになったのは、20歳の頃、秋田の聖体奉仕会に初めて巡礼して、修道院の聖体礼拝に参加したことだと思います。

私は社会生活をしていますので、毎日とか、毎週というわけにはいきませんが、主が時間を用意してくださった時、チャンスを見つけて、聖堂を訪れ、御聖体を訪問するようにしています。ですから、聖体訪問が素晴らしい習慣である、ということは、私の体験からも実感していますし、告白できます。

聖体訪問をして、主イエスと霊的に、そして人格的に交わり、霊的な対話を重ねていくことは、はかり知れない相互理解を生んでいきます。聖体を前にして、何を語ったら良いかわからないのなら、ただ沈黙のうちに、主イエスの愛の現存の前に静まるだけでも良いと思います。愛し合う人々は、ただ黙って共にいることも可能なのですから。私たちの霊が、主イエスの霊と交流し、イエスの思いと願いを、霊的に受け入れ、理解できるようになっていくことでしょう。それは、知的解釈や理解を超えた、霊による一致と交わりです。

私たちは、礼拝と信仰の表明に時間を優先して割くことによって、社会的なバランスを失うのではありません。むしろ、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書 3:16)神の御心を理解する恵みへと導かれ、霊的な支えを確かに受けて、真の意味での信仰生活の平行感覚を得、世間に惑わされない信仰の成熟に導かれるのです。

時折聖体訪問をすることで、私たちは「神との時間を優先する」価値観を表明します。聖体訪問をすることで、私たちは「見えない事実を確信する」信仰を表明します。聖体訪問をすることで、私たちは御聖体のうちに生きておられる主イエスへの燃える愛と信仰と希望を表明します。

この時、私たちは聖書の次の言葉を実践しているのです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 」(ヘブライ人への手紙 11:1)

中世イタリアの謙遜な聖者、アシジの聖フランシスコは、霊感のうちに次のように語りました。

「生ける神の子キリストが、祭壇の上、司祭の手の中におられる時、
 全人類は震えおののき、全地はゆれ動き、天は喜び踊るべきです。

 ああ、なんと驚嘆すべき偉大さ、なんと驚嘆すべき御稜威!
 ああ、なんと偉大な謙遜、なんと謙遜な偉大さ!

 全宇宙の主、神、神の御子が、私たちの救いのために、
 小さなパンの中に隠れるほど、へりくだられるとは!
 兄弟たち、神の謙遜を見なさい!             」

                (『全兄弟会にあてた手紙』より)   

地が震えおののき、天が歓喜に満たされるほどの偉大な謙遜によって、
小さなパンとなって、私たちの主は、共におられます。
私たちの霊的いのちを支える食べ物となって、主なる神は共におられます。
この、人間の想像をはるかに超えた謙遜の前に、悪魔は敗北して逃げ去ります。

この主イエスの、人間の想像をはるかに超えた愛が、御聖体のうちにあふれ、
あなたが来るのを待っておられます。

どうぞ、時折、御聖体の主イエスを訪問することに時間をとり、娯楽よりも優先してください。
この素晴らしい至上の神の恵み、御聖体の主イエスを、孤独のままにしておかないでください。

神の至上の愛に、愛と誠意で応えていきましょう。

聖堂の中心、聖櫃の中、御聖体のうちにあふれる主イエスの愛の鼓動を、心を鎮めて聞いてください。

聖体訪問によって、主イエスとの間の相互理解が、必ず、より一層深まっていくことでしょう。

主イエスは、私たちを待っておられます。

 

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