私とカトリック

2013年2月19日 (火)

父の帰天の翌朝に

先月1月14日の成人式の日、あの関東が大雪に見舞われた夜、私の父が帰天(逝去)いたしました。75歳でした。

半年前に末期の食道がんであることがわかり治療を受けていました。

あの日、父は入院中の病院から午前中に自宅に電話を入れてくれて、「今日は雪が降っているから、見舞いには来なくていいよ。」と言ってきました。

夕方、心配でたまらなくなっていた近所に住む妹が見舞いに訪れ、父が吐血して意識が薄れているのを見つけました。その後、2時間ほどであっというまに亡くなってしまいました。妹からの連絡でタクシーに飛び乗った私と母と弟は、心臓の止まった父と対面いたしました。妹が最後を看取れたことが、本当に良かったと神に感謝しています。妹が後に語ってくれたことですが、妹は毎日「お父さんの最後を看取らせてください。」と祈っていたということです。主は、妹の願いを聞き入れてくださいました。

父の人生を思うとき、私にはただただ「本当にありがとう。お疲れ様。」という言葉が繰り返し浮かんでくるだけでした。
父はカトリック教徒ではなかったのですが、高校生の時に「洗礼を受けたい」と言った私と、その後に洗礼を受けた妹と母をゆるしてくれました。そして、家族のそれぞれの十字架を共に引き受けて担ってくれた、善良な日本人でもあった父でした。

私は父が末期の食道がんの宣告を受けてから、父のためにロザリオの祈りいつくしみのチャプレットを頻繁に唱えて主イエスと母マリアに祈りを捧げました。

すべての人のために十字架につけられ、すべての人のために復活された人類の贖い主であるキリストに、父の人生の献身と犠牲、病苦の捧げものを顧みて、父の人生のすべての罪が赦されるように、そして主イエスが無限のあわれみといつくしみの御心を開いて、父を受け入れて、天上の至福の中に迎え入れてくださいますように、と毎日祈りました。

そしてすべての民の御母であり、罪人の拠り所であり、天の門である御母マリアに、父の永遠の救い、永遠のいのちのために、力強く取り次いでくださいますように、と祈っていました。

14日の晩、父の臨終に接して、病室で家族皆でアヴェマリアの祈りを唱え、御母マリアに父の永遠を委ねました。

父の通夜と葬儀は20日、21日に市内の斎場で行われました。我が家の菩提寺である真言宗の住職が来てくれました。父の地域の飲み仲間であった葬儀社の若い社長さんが、心のこもったあたたかな葬儀にしてくれました。

定年後、自治会活動などで働き、様々な役職を仰せつかって奉仕した父のために、自治体関係者の方々、自治会活動の関係者の方々など、たいへん多くの方々がご参列くださって、ただただ感謝の思いで過ごしました。

父の人生は多くの苦しみと困難があり、うまくいかなかったことも多かったのですが、晩年はたくさんの仲間に支えられ、慕われて地域奉仕に献身することができ、本当に恵まれた、幸せな悔いのない晩年を過ごさせたのではないかと感じています。

自宅マンションの自治会の方々が、大勢受付を手伝ってくださったり、しばらく会っていなかった親族とも再会できたりと、葬儀の場とは、やはり日本人の「絆」を確かめる場なのだな、とあらためて感慨深く感じた次第です。


さて、父の帰天の翌朝、とても不思議なことがありました。

父が亡くなった日は、深夜に帰宅しましたが、目が冴えてなかなか眠れませんでした。翌朝、私はごみを出そうとして自室マンションのドアを開けて廊下に出ました。すると、一羽のハクセキレイが舞い降りてきて、私の足元に降り立ちました。そして、ぴょんぴょんと歩きながら、まっすぐに廊下を進み、私を先導して案内するかのように、エレベーターまで進みました。そして、私がエレベーターに着くと、「ピピッ」と鳴いて、さっと飛び立っていきました。こんな珍しい、ユニークな体験ははじめてのことでした。

私の部屋はマンションの6階の一番端の部屋であり、エレベーターまでは一番距離のある部屋です。普通、小鳥というものは、ぴょんぴょんと歩くとしても、行ったり来たり、右に左にと歩き回るのが普通だと思うのですが、このハクセキレイは、私の目の前に降り立ち、まっすぐに長い距離を歩き、エレベーターまで先導してくれました。

なんとも不思議で、私はとてもうれしくなり、「ああ、マリアの使いが来てくれたかな。」と感じました。
それというのも、このハクセキレイは、私がトラピスト修道院の中庭で毎朝出会っていた小鳥と同じ種類の小鳥だったからです。このトラピスト修道院での毎朝の小鳥との出会いは、私にとってとても印象深いものでした。それ以来、私はこの小鳥に出会うと、「マリアの使い」と呼んでいたのです。

きっとこの小鳥は、主イエスと母マリアから遣わされて、父が罪の赦しを受けて天国に入ることを約束し、知らせてくれたのだ、と思いました。天上の国は時折、さりげなく共にいて見守っていることをサインを示して知らせてくださいます。

この小鳥のことを親戚たちに話すと「お父さんが会いにきたね!」と言われました。臨終の時を看取れなかった私のために、父が小鳥となって挨拶に来てくれたのでしょうか。普通の善良な日本人の親族たちにとっては、このように感じるのでしょう。真言宗では、死後49日の間は、霊魂は地上に留まり、罪の清めを受け、そして天上に入るのだということです。カトリックの煉獄と似た教えがあるのですね。

父がすべての罪のゆるしを受けて天上の至福に迎え入れられ、私たち家族を見守ってくれるように、そして永遠の御国で歓喜のうちに再会できるようにと願いながら、これからの地上の信仰の旅路を続けていきたいと思います。



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2012年7月11日 (水)

素晴らしい聖体訪問

皆様は、聖体訪問という素晴らしい習慣が、カトリック教会にはあるのをご存知ですか?

聖体をご存じない方々のためにご説明しますと、聖体とは、ミサの中で聖別され、聖変化されたパンとぶどう酒のうちにまことに現存される、主イエス・キリストの御体と御血のことです。

主イエスは、十字架上の死に渡される前の最後の晩餐を弟子たちと共に過ごされ、ユダヤ人の祭りである過越しの食事をされました。その時、パンとぶどう酒を分かち合われ、この聖体を制定されたのです。

「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これは私の体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くに人のために流される私の血、契約の血である。』」(マタイによる福音書 26:26-28)

この甘美な最後の晩餐の神秘の中で制定された聖体であるパンを、カトリック教会の信徒は、最後の晩餐の再現であるミサの中で拝領します。これは、2000年間続いているカトリック信仰の至宝であり、根幹です。

キリストの御体であるパンと、キリストの御血であるぶどう酒は、私たちの霊的いのちの糧となるのです。私たちのいのちが、キリストのいのちと結ばれ、私たちはキリストのいのちによって、生かされていくのです。ですから、私たちは、いつもキリストと共におり、キリストが私たちの心と霊と体の神殿の中に、住まわれます。

私たちは洗礼によって、キリストの死と復活に結ばれて罪を贖われ、新しいいのちを生き始めます。その新しいいのちを支え、養っていくのは、聖体の中にまことに現存される、キリストのいのちなのです。

そして、この聖体は、ミサの中で配られ、拝領されるだけではありません。
伝統的に、カトリック教会の聖堂の中心には、聖櫃という聖なる箱が置かれ、その中に、聖体であるパンが安置されています。ですから、カトリック教会の聖堂を皆様が訪れるなら、いつでも、キリストの御体である聖体が、出迎えてくれるのです。これは、キリストが、いつも私たちと共におられるという明確な生きたしるしです。


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御聖体が安置されている聖櫃


そして、聖堂に安置されている御聖体を訪問して礼拝する習慣のことを、聖体訪問と言います。この習慣が歴史的にカトリック教会に根付いたのは、信仰心の表明として、実に当然なことでした。そして、その訪問を霊によって促し、導くのは、御聖体のうちにまことに現存されるキリストの、愛による招きなのです。

私たちカトリック信徒は、この愛の招きを霊的に感じるなら、聖体訪問への強い渇きを感じます。聖体のうちにまことに現存されるイエスの御心は、愛の生ける泉だからです。この泉の水を飲む者は、渇きを癒され、主が共におられるという確信によって、喜びと平安に満たされます。

聖体訪問をし、聖体の前で祈り、礼拝することは、聖体のうちにまことに現存される主イエスとの霊と心の対話であり、交流、すなわちコミュニケーションです。イエスは愛のうちに聖堂の聖櫃の中に留まり、皆が訪問してくれるのを待っているのです。

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さて、カトリック信徒の皆様、私たちの日常生活では、家族や親しい友人たちと集まって食事をします。そして、時折、離れて暮らす肉親や兄弟、親戚、友人たちを訪問します。訪問して交わり、対話して共に時間を過ごすことは、何よりも素晴らしい相互の尊重と友愛、理解を生みます。

それに比べて、私たちの救い主であり、神である主イエスに対する、私たちの態度はどうでしょうか?
日曜日のミサに行き、聖餐を共にし、聖体を拝領しますが、それ以上のことは望みません。

「私は忙しいし、ミサだけで精一杯。それ以上のことを信仰に求めません。神様は、私のことを全部わかっているし、あれこれ祈りに時間をかけていたりしたら、社会生活におけるバランスが悪くなってしまいます。祈るより、社会奉仕のほうが大切だし、信仰に逃避したくありません。」と考えてはいないでしょうか?

確かに、主イエスは、私たちのことをすべてわかっていることでしょう。多忙な社会生活の中で、聖体訪問のために時間を割くことは、いくらかの自分の時間を犠牲にすることになるかもしれません。そして、「宗教の信仰にのめりこむと危険だ」と、信仰への懐疑に満ちた現代社会は教えています。

しかし、それでも主イエスは、聖堂の聖櫃の中で、静かに私たちを待っておられます。そして信仰と愛の表明と、霊的で人格的な交流を求めておられます。現代、カトリック教会では、聖体訪問をする人が、あまりにも少なくなってしまいました。多忙で合理主義に支配された現代の日本社会において、単純な信仰の表明と神との時間を優先する価値観が、失われてしまっています。日本に住むカトリック教徒も、その影響を大きく受けているのです。

皆様、ご自分の教会で、また都会のカテドラルや旅先の教会などで、ぜひ御聖体を訪問し、待っておられる主イエスにご挨拶してください。そして、心の思いや願い、悩みなどを話してみてください。誰よりもあなたを理解し、あなたの全てを知っておられる主イエスは、ずっと話を聞いてくださり、あなたを信仰の火と愛で満たし、最善の道へとあなたを導いてくださいます。時間が無いのなら、ご挨拶するだけでも良いと思います。キリストの現存への感謝と愛を、ぜひ実践的に示してください。聖体訪問は、空虚で学問的な空想ではありません。生ける神の愛の現存への、実践的な信仰の表明です。

私も日々、仕事で多忙ですが、時折、聖体訪問をすることに、昔から時間を取ってきました。特にこの習慣が身につくきっかけになったのは、20歳の頃、秋田の聖体奉仕会に初めて巡礼して、修道院の聖体礼拝に参加したことだと思います。その後、フランシスコ会に入会した後、志願期、修練期と、毎日の生活の中で、しっかりと聖体礼拝の習慣をしつけられました。

その後、修道会は退会し、現在は社会生活をしていますので、毎日とか、毎週というわけにはいきませんが、主が時間を用意してくださった時、チャンスを見つけて、聖堂を訪れ、御聖体を訪問するようにしています。ですから、聖体訪問が素晴らしい習慣である、ということは、私の体験からも実感していますし、告白できます。

聖体訪問をして、主イエスと霊的に、そして人格的に交わり、霊的な対話を重ねていくことは、はかり知れない相互理解を生んでいきます。聖体を前にして、何を語ったら良いかわからないのなら、ただ沈黙のうちに、主イエスの愛の現存の前に静まるだけでも良いと思います。愛し合う人々は、ただ黙って共にいることも可能なのですから。私たちの霊が、主イエスの霊と交流し、イエスの思いと願いを、霊的に受け入れ、理解できるようになっていくことでしょう。それは、知的解釈や理解を超えた、霊による一致と交わりです。

私たちは、礼拝と信仰の表明に時間を優先して割くことによって、社会的なバランスを失うのではありません。むしろ、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書 3:16)神の御心を理解する恵みへと導かれ、霊的な支えを確かに受けて、真の意味での信仰生活の平行感覚を得、世間に惑わされない信仰の成熟に導かれるのです。

時折聖体訪問をすることで、私たちは「神との時間を優先する」価値観を表明します。聖体訪問をすることで、私たちは「見えない事実を確信する」信仰を表明します。聖体訪問をすることで、私たちは御聖体のうちに生きておられる主イエスへの燃える愛と信仰と希望を表明します。

この時、私たちは聖書の次の言葉を実践しているのです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 」(ヘブライ人への手紙 11:1)

中世イタリアの謙遜な聖者、アシジの聖フランシスコは、霊感のうちに次のように語りました。

「生ける神の子キリストが、祭壇の上、司祭の手の中におられる時、
 全人類は震えおののき、全地はゆれ動き、天は喜び踊るべきです。

 ああ、なんと驚嘆すべき偉大さ、なんと驚嘆すべき御稜威!
 ああ、なんと偉大な謙遜、なんと謙遜な偉大さ!

 全宇宙の主、神、神の御子が、私たちの救いのために、
 小さなパンの中に隠れるほど、へりくだられるとは!
 兄弟たち、神の謙遜を見なさい!             」

                (『全兄弟会にあてた手紙』より)
     

地が震えおののき、天が歓喜に満たされるほどの偉大な謙遜によって、
小さなパンとなって、私たちの主は、共におられます。
私たちの霊的いのちを支える食べ物となって、主なる神は共におられます。
この、人間の想像をはるかに超えた謙遜の前に、悪魔は敗北して逃げ去ります。

この主イエスの、人間の想像をはるかに超えた愛が、御聖体のうちにあふれ、
あなたが来るのを待っておられます。

どうぞ、時折、御聖体の主イエスを訪問することに時間をとり、娯楽よりも優先してください。
この素晴らしい至上の神の恵み、御聖体の主イエスを、孤独のままにしておかないでください。

神の至上の愛に、愛と誠意で応えていきましょう。

聖堂の中心、聖櫃の中、御聖体のうちにあふれる主イエスの愛の鼓動を、心を鎮めて聞いてください。

聖体訪問によって、主イエスとの間の相互理解が、必ず、より一層深まっていくことでしょう。

主イエスは、私たちを待っておられます。