千利休はカトリックだった? 茶の湯とキリスト教の関係性
本日は、豊臣秀吉の命令によって殺害された、日本のカトリック教会の最初の殉教者たちである、日本26聖人殉教者の記念日です。
先日、2月3日の朝日新聞の文化面に、「キリスト教徒だった?千利休」と題して、茶の湯の誕生に際したカトリックとの関係性に関する記事が掲載されました。
私たち日本のカトリック教徒にとっては、真に信憑性のある説として語られていることなのですが、一般の日本人にとってはあまり知られていない、ある意味でタブー視されてきた歴史学における一説です。
日本の文化の粋とも言える「侘び茶」の大成者としての千利休ですが、茶の湯の草創期、千利休の高弟であった「利休七哲」と呼ばれた七人の弟子たちの多くは、キリシタン大名でした。高山右近、牧村兵部、蒲生氏郷の三人はキリシタンであり、古田織部、細川忠興もキリシタンであった可能性があります。つまり、七人の弟子のうちの五人はカトリックと関係の深い人物たちだったのです。
カトリックとの関係性を感じさせる部分は、それだけではありません。茶の湯の作法と様式に、カトリックのミサの作法や聖書的な教えが盛り込まれていると感じさせる部分がいくつもあるのです。
利休の茶の湯が、当時の日本における最先端文化だったカトリックの影響を受けていたという説は、なんとも歴史のロマンを感じさせるものです。
利休の孫、宗旦の次男だった一翁宗守を祖とする武者小路千家の14代家元である千宗守さんは「一つの茶碗の同じ飲み口から同じ茶を飲む『濃茶』の作法は、カトリックの聖体拝領の儀式からヒントを得たのではないか」と主張しています。「この飲みまわしの作法が文献に初めて登場するのは1586年(天正14年)、それ以前には行われた記録がなく、どこからかヒントを得て、利休が創案したと考えるのが自然」であると言われています。
当時、日本でも有数の貿易都市であった堺では、カトリックの宣教が盛んでした。「ミサの際、イエスの血の象徴であるワインを入れた杯を回し飲みする様子を見た利休が、場の一致感を高める目的から、日本人にはなじみが薄かった飲み回しを茶の湯に取り込んだのではないか。茶入れを拭く際の袱紗さばきや茶巾の扱い方なども、聖杯(カリス・ワインを入れた杯)を拭くしぐさと酷似している。偶然とは考えにくい。」と千宗守さんは言います。
また、茶室の入り口が「にじり口」と呼ばれる身をかがめなければ通れない2尺ほどの狭い入口で作られていることも、「狭き門から入れ」というキリストの言葉を象徴的に表現しているのではないかという説もあります。
1994年、千宗守さんは、ローマ法王・ヨハネ・パウロ2世に謁見した際、この説を披露しました。するとバチカンの関係者から「法王庁の未公開資料の中に、茶の湯とキリスト教のミサの関連を記した文書がある。いずれ公開されると思うので、待っていてほしい」と言われたそうです。
しかし、今のところ、国内で茶の湯とカトリックの関係性を証明する資料は存在しません。
もし、茶の湯の誕生がカトリックとの交流の中で生まれたことが決定的に証明できれば、まさに、日本人は、戦国時代から、外国文化を積極的に上手に取り入れて自分たちの文化にすることが得意だったということが証明されますね。
茶の湯の歴史の根幹にかかわる重要な説だけに、タブー視せずに、心を開いて、もっと研究していただきたいと思います。
上智大学で、ぜひ、もっと研究してください!
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