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2013年8月 5日 (月)

放射能汚染水 ~福島第一原発の黙示~

「第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された。」(ヨハネの黙示録 8章8-9節)

「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちてきて、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。」(ヨハネの黙示録 8章10-11節)

今回は、福島第一原発でますます深刻になりつつある放射能汚染水の問題について、霊的次元での考察を少し分かち合いたいと思います。

私は今まで、東日本大震災と福島第一原発の出来事について、この「新しいいのち、新しい世界へ」ブログに、見解を記事としてほとんど書いてきませんでした。2年間、ほぼ沈黙してきたと言えます。

当時、東日本大震災と福島第一原発の出来事を体験していく中で、私はこの出来事を、まさに、創造主である神からの終末的黙示であると捉えました。そのように感じ始めてから、私の内面で「この出来事について沈黙し、よく見なさい。」という呼びかけを感じました。ですから、それ以来、私はほとんど何も語りませんでした。ただ、沈黙のうちに、神が沈黙のうちに何を示しておられるのかを理解しようと努めてきました。

私は大震災当時、最初に汚染水が漏れて流れていることが報道された時、この汚染水の問題が、今後、途方もない大問題になるだろうことを感じ、恐れに圧倒されました。この時、私が思い出したのは、聖書のある特別な一節でした。それは、旧約聖書のエゼキエル書の一節です。

「彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼は私を北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り縄を持って東の方に出ていき、一千アンマを測り、私に水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、私に水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、私に水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることができない川となった。彼は私に、『人の子よ、見ましたか』と言って、私を川岸へ連れ戻した。私が戻ってくると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼は私に言った。『これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れていく所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。』」(エゼキエル書 47章 1-12節)

これは、預言者エゼキエルが、再興される新しいエルサレムの神殿について見た幻です。この幻は、キリスト教的に見ると、イエス・キリストによって打ち立てられる新しいイスラエルの、刷新された新しい神殿、新しい聖所から世界中にあふれ流れる豊かな恵みをあらかじめ示していると解釈できます。

読者の皆様、このエゼキエル書の一節を読んで、何かお感じになりませんか。そうです。この箇所は、福島第一原発で起きている出来事の対照を示していると言えるのではないですか。

つまり、この箇所の、神殿から流れ出る豊かな「恵みの水」「いのちの水」の流れが世界を癒し、清め、豊かにしていくということに対して、福島第一原発で起きていることは対照的です。止まることなく原発から流れ出る「汚れた水」「死の水」が、海に入り、いのちの源、被造界の基礎を汚し、創造された世界の喜びを奪っていくということについてです。

ですから、聖書のこの一箇所をとってみるだけでも、この福島第一原発の出来事は、聖書的に洞察し、黙想のうちに解釈するならば、明らかに創造主からの大警告が示されていると感じることができます。

更に言うならば、エゼキエル書のこの箇所の「いのちの水の流れ」は、聖霊の恵みの象徴として解釈されます。ですから、福島第一原発の汚染水流出の出来事を象徴的に解釈するならば、それは、まさに、聖霊を冒涜する世界の象徴として具現したと解釈することもできるでしょう。


さて、冒頭のヨハネの黙示録の箇所は、幻視者ヨハネが、イエス・キリストから示された終末の様相についてのビジョンの一部です。もちろん、2000年前の記録ですから、その内容は象徴的であり、具体的出来事を詳細に語っているものではありません。しかし、このヨハネの黙示録の箇所を読むだけでも、終末的様相において起きる「水源の汚れ」が象徴的に示されていることが理解できます。

時間を超えて、歴史を貫いて、常に終末的様相を指摘し、指し示すヨハネの黙示録の霊的役割を読み解くならば、まさに、福島第一原発で起きていることは、黙示録的な意味を神が示し、それが明確に表されていると言えるのではないでしょうか。

ご記憶の方もあるかもしれませんが、チェルノブイリ原発事故の際、ひとつの情報が世界中を巡りました。それは、ロシアの「チェルノブイリ」という地名は、この地方において「苦よもぎ」を意味する名前だということについてです。私はロシア語に詳しくありませんので、この情報がどれくらい確かなものなのかはわかりませんでしたが、当時、世界中の多くのキリスト教徒が、この情報に接し、恐れに震え、ヨハネの黙示録の成就、具現を感じたのでした。もちろん、当時共産主義のソビエト連邦であったロシアも、そのもともとの基礎はキリスト教国家であったわけですから、共産党幹部がどう思ったにせよ、善良な信仰をひそかに守っていた市民の中には、黙示録の解釈によって、チェルノブイリの出来事が神からの大警告であると悟った人々もたくさんいたことでしょう。

示しましたエゼキエル書47章の箇所で示されているのは、神の神殿から流れ出る聖なるいのちの水の流れ、いのちを豊かに与える聖霊の「生ける水」の流れです。そして、冒頭のヨハネの黙示録で示されているのは、終末において起きる、大天罰としての水源の汚れです。

現代世界は、神の神殿から流れ出る聖なるいのちの水に豊かに潤される道を選ばず、偽りの神殿、すなわち聖霊を冒涜する偶像神の神殿から流れ出る汚れた水を飲み続けています。

福島第一原発の流れ続ける汚染水が黙示的に示しているのは、まさに、偽りの偶像神の神殿の汚れた水が広がり続け、それを飲み、利用し続ける現代世界への大警告としての意味も持っているのではないでしょうか。

そして、福島原発の出来事が、まさに日本で起きたことは、本当に、私たちの国・日本が、偶像神を礼拝する、汚れた水を飲み続けるようになった民であることを、神が知らせようとされているのだと思います。

今も、静かに、止まることなく、汚染水は海へと流れ続けています。いのちの源を汚しながら。


「天使はまた、神と子羊(イエス・キリスト)の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。そして、木の葉は諸国の民の病を癒す。もはや、呪われるものは何一つない。」(ヨハネの黙示録22章1-3節)

Livingwater


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