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2012年7月14日 (土)

美智子皇后の実弟、正田修夫妻カトリックの洗礼を受けられる

皆様に、喜びのお知らせをいたします。

私の信頼できるカトリック教徒の知人からの情報によりますと、今年に入ってから、皇后・美智子様の実弟である正田修・素子夫妻が、都内の教会でカトリックの洗礼を受けられたということです。

正田家は、美智子様の祖母きぬさんが昭和2年にフランス人宣教師ヨセフ・フロジャック神父より洗礼を受けられてから、カトリックには縁の深いお家柄です。きぬさんの夫であった正田貞一郎氏も、戦後、昭和24年に関口教会でカトリックの洗礼を受けられています。また、美智子様の母上である冨美子さんも、臨終の間際に洗礼を受けられ、実妹の安西恵美子さんも洗礼を受けられたとのことです。

美智子様がカトリックのミッションスクールで育ち、聖心女子大学を卒業されたことは、あまりにも有名ですね。
美智子様は、カトリックの精神が育んで誕生した、日本の新しい時代の皇后である、と私たちは胸を張って言えるのではないかと思います。

さて、最近テレビでどなたかが、「今の時代、人格と品格を守るのがとても困難になった。」と言っているのを耳にしました。現代の発達したコミュニケーションの拡大による情報の洪水の中で、人格の尊厳と品性を破壊する様々な言葉と表現が様々なメディアから、無制限に流れてきます。

私は、現在のインターネット時代の新しい情報社会とコミュニケーションの発達そのものの全てを否定しているのではありません。インターネットの発達によって、私たちは必要とする情報が瞬時に手に入るようになり、また、インターネットコミュニケーションの発達によって、国家の壁が崩壊し、人々は必要とする時にすぐに交流ができるようになりました。人々の心が開かれ、知的欲求が満たされ、孤独が癒され、真実が明らかになってきています。それらの善の側面は、私たちの社会の刷新に寄与し、省資源、省エネルギーにも貢献しています。

しかし、一方で、負の側面は異常なほどの支配を広げています。私たち、特に現在の子供たちと若者たちは、物心がついた時から、インターネットやテレビ、映画、漫画、ゲーム、様々なマスコミを通して、退廃した下品な多量の情報に慣らされ、そのような情報を共有することで連帯を見出し、協調しています。「協調性」という言葉がもてはやされ、至上の価値とされる日本社会の中で、極めて世俗的な流行に同調し、心を開かなければ、寛容性の欠如と見なされ、「社会不適応」の烙印を押されてしまうかのようなご時勢です。「協調性」の基準をどこに置くのか、社会的寛容とは何なのか、私たちが守らなければならない人格の尊厳と品性とは何なのかについて、緊急に思い巡らさなければならない時期に来ているのではないでしょうか。

現在の日本の世俗文化の象徴的存在であり、大きな影響を与え、メディアを支配しているとも言える吉本興業などのお笑いや、刺激的な企業CMなどは、目と耳をふさぎたくなるような品性の欠如したいいかげんな言葉と感性、表現を機関銃のように乱射し、無防備で感受性の強い若者たちに影響を与え、その退廃した文化と生活表現を伝染させています。感受性の退廃は、生活の退廃へと導き、家庭の退廃、共同体の退廃、経済活動の退廃、そして国家の退廃へと導いていきます。

メディアに関わり、実質的に大きな社会的影響力を持っている人々は、表現と言論の自由を注意深く気高く駆使しなければ、未来の社会の存亡に関わってしまうということを真剣に自覚しなければいけません。そのような真剣な社会的配慮の欠落がもたらす重大な結果はすでに私たちの精神性に現れ始めており、今後20年、30年、50年後にさらに重大な結果をもたらすことでしょう。

さて、天皇家が日本国民統合の「象徴」として、国民に与えられた恵みであるならば、皇室が懸命に表現している品位と美は、本来全ての日本国民が平等に共有すべき、日本人の心の美徳ではないでしょうか。

よく、皇室のことについて、「私たち一般市民には縁遠い世界だ。」とか、「私たち下々の者には関係がない。」という表現を耳にしますし、それは一種の妬みの表現でもあり、自分たちの現実からの諦めの表現とも思いますが、本来、人間の尊厳と品位に、身分の上下や社会的地位は関係がないと思います。

むしろ、市井の中で、認められなくとも小さな生活を誠実に生きようとして、神や仏を裏切らない生活をしようと懸命に生きている人々の中に、偽りではない真の品格が存在するということを私たちは体験的に、そして本能的に知っています。創価学会や立正佼成会、実践倫理会などの新興団体の興隆は、日本人が本来所有しており、求めている人格の尊厳と品性への憧憬を提供しようとしているからでなないでしょうか。


私たちカトリック教徒は、神から与えられた人間の本来の人格と品性の気高さのことを、「聖性」と呼びます。カトリックでは、「聖性を生きることは、すべてのカトリック教徒の義務である」(教皇ヨハネ・パウロ2世)とまで教えます。

「私は聖人ではないから。」とか、「修道院でなければ、聖なる生活はできない。」と考える人々がカトリック教徒にも存在しますが、それは大きな勘違いです。聖性とは、本来、私たち全ての人間の本性に注がれている神の恵みなのです。それを自己の中に見出し、聖性を生きようと決意することは、神から与えられた本来の自分のいのちと人間性の美しさに素直に従うということです。

「本当の自分を生きる」と宣言して、動物的本能のままに享楽的、あるいは退廃的な言動で生活しようとする人々がいて、それが寛容だと受けとめられ、そのほうが正直だと言われたり、世間的に魅力的に語られたりもしますが、それは、神が与えてくださった人間のいのちの恵みの本来の品位と美を見つめずに軽んじる、途方も無い神への忘恩と侮辱なのです。

人間同士のコミュニケーションを隔てていた壁が崩れ、インターネットと携帯電話、簡易コミュニケーション媒体が劇的に普及した現在、私たちは、以前より無防備になり、退廃した無差別な情報との接点が過剰に増えています。その意味で、私たちが聖性を生きるためには、以前に増して、私たちの内にある聖性を守る努力と決意が必要となってきています。

たとえば、電車の中で大部分の男女が携帯電話やスマートフォン、携帯端末を操作してメールやインターネット、ゲームなどを利用している現在の状況は、私には、ぞっとするほどの一種異様な状況と感じられます。

携帯端末の普及する以前は、電車の中では読書したり、疲れを休める為に仮眠したり、物思いにふける人々がいたり、同伴者と生きた会話をする人々がほとんどでした。電車の中は、沈黙のうちに心を休め、思索する静けさに満ちていましたし、あるいは生きた人間の交流の場だったのです。しかし、現在は、電車の中はあらゆる雑多な情報との接触の場となり、同伴者がいても携帯をながめている人々がいます。人間の生きた交流が失われ、心と霊を休める場ではなくなりました。

私たちカトリック教徒は、よく電車やバスの中でロザリオなどで祈るようにと勧められてきましたが、現在の日本の一般の社会状況は、「電車の中で静かに祈る」ような心と感性は、ほとんど失われてしまったと言えます。

カトリック教会にある生活様式の一つである観想修道院の生活は、ある意味で「象徴」です。天皇家が日本国統合の象徴ならば、観想修道院の生活は、キリスト教的な聖性の生活の象徴です。修道生活は、「囲い」と呼ばれる禁域を持ち、聖性への望みを破壊する様々な事象と知識から、自分たちの礼拝と労働の生活を守ります。

私が北海道北斗市・渡島当別のトラピスト修道院で生活した2年余りで私が理解しえたことのひとつは、氾濫している雑多な情報から解放され、創造主の愛のみを思索し、シンプルに生きる礼拝と労働の生活が、どれほど愛と喜びと心の平和にあふれているかということでした。それは確かに、聖性への望みが、本来人間が持っている真の願望であることを感じさせてくれました。

社会生活を送る私たちも、この異常な情報の氾濫の時代、「心と霊の囲い」を守る決意が、一段と必要になってきているのではないでしょうか。

現在の情報社会の中では、いかに多くの情報と接点を持ち、いかに雑多な知識を受け入れて豊富に持っているか、いかに多くの情報を使いこなすかが社会的に優位にたつことの条件になっているかのようです。知識の優位が、人間性の優位のように思われています。

しかしそれは、真の識別をもたない個人個人が多量の情報と接点を持つことが可能となった今の時代に、重大な倫理的危機と混迷をもたらしています。情報との接点が過剰に増え、「情報を入手せよ」という企業市民社会からの圧迫が個人に迫り、それが人生を成功と幸福に導くと思わされ、人々はどう取り扱っていいかわからない雑多な情報に振り回されていきます。そのことによって、人々は、経済的利益を生み出す欲望の拡大と全ての世俗的事柄の受容を要求され、内面的混乱のうちに、善と真実による識別の目を失ってしまうのです。それは結果として、聖性の喪失と破壊へと至ります。

私たち信仰者はこの重大な時代、自分たちの「心の囲い」に、入れても良い情報と、入れてはならない情報、入れても良い価値観と、入れてはならない価値観を、しっかりと見極めていく必要があると思います。それは、この社会の現実の中にあって、神の国を表現し、生きていくために、絶対に必要なことでしょう。

「心の囲い」を持つことは、社会からの逃避ではありません。人間のコミュニケーションを阻む壁を作ることでもありません。人間性を堕落させる退廃と混乱からの防衛であり、人間同士のコミュニケーションの中で自分の心に築かれている神の家、神の国を示すことです。それは、神の御心にかなうことであり、神が限りない愛のうちに創造された人間と世界の本来の美への信頼を生き、それを守ることに協力することです。

ですから、それは逃避と言うよりは、気高い戦いです。修道生活の「囲い」が聖性を守るための霊魂の戦いの象徴なのですから、社会生活を送る私たちの聖性の戦いは、より最前線において、実戦的に、多様な手段と方法で行われていく必要があると思います。

願わくは、私たち日本国民、日本社会、日本国が、キリストと出会い、キリストの愛を見出し、神が与えてくださる聖性に満たされていきますように。

それは、神が与えてくださった本来の姿の、新しく美しい国を築いていくということです。


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