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2012年7月

2012年7月16日 (月)

置かれた場所で咲きなさい

先日、私たちカトリック教徒が皆知っている著名なシスター、渡辺和子さんの最新の著書、「置かれた場所で咲きなさい」(幻冬舎)が、一般書店でベストセラーランキング1位になっているという驚きの事実を知りました。

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さっそく、私が住んでいる街にあるブックセンターに出向いてみると、やはり、「ベストセラーランキング」で1位を獲得していることを確認しました。なんという驚くべきことでしょうか。晩年を迎えたひとりの老シスターのエッセーが、日本の多くの老若男女の心をつかむとは!

Googleブログ検索で、「置かれた場所で咲きなさい」を検索すると、たくさんの方が感想をブログに書いておられます。

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カトリック教徒としての重大な義務感を感じ、さっそく購入して読んでみました。もちろん、渡辺和子さんのことは、それなりに知っていたつもりでした。テレビのカトリック番組「心のともしび」に出演しておられた時には視聴させていただきましたし、私の書棚を探してみると、以前の著作のひとつがありました。渡辺和子さんは多くの著作を著しておられますが、しかし、シスターの著作であること、シスター渡辺が女子校の教育者であることなどから、私は「女性向け」の著作であろうと推察して、失礼ながら、あまり読んだことはありませんでした。

さて、今回の著作を拝読してみて、この著作は、以前からの渡辺和子さんの主張やメッセージが凝縮されてわかりやすく簡潔にまとめられていると感じました。ある意味で、晩年を迎えたシスター渡辺の「遺言」とも受け取れる内容です。

内容は、教育者として若者たちや教育界、一般社会と幅広く交流してきたシスター渡辺の様々な深い経験に裏打ちされた珠玉の言葉集となっています。この著作は、決して教条的にキリスト教の教理を説くのではなく、様々な出会いと経験の中でシスター渡辺が考察し、黙想した実りの分かち合いです。ですから、カトリック教徒向け、というよりは、広く一般の日本人に向けられたわかりやすいメッセージとなっています。

表題からすると、若者たち向け、特に女性たち向けの内容と推察しがちですが、その内容は、85歳を迎えた渡辺和子さんの老境の謙遜で気骨ある達観を表現しているものであり、定年後の世代の男女の方々にも、ぜひ、お勧めしたい内容です。その意味で、全ての老若男女にお勧めできる内容ですから、一般書店でベストセラーになっているのも、うなずける事実です。

それにしても、表題の「置かれた場所で咲きなさい」とは、なんと時節に合った、タイムリーな表題でしょうか。
東日本大震災を経て混迷を深める日本社会、多くの人々の人生が、自分で思い描いたようにはいかなくなっています。この表題が、希望を失い人生に悩む日本の多くの人々の心を惹きつけたのもうなずけます。

夢を抱き、自分の計画の成功を願うことは、人間として必要なことですが、自己実現の願望だけでは、人生の苦悩と困難、失敗や挫折を乗り越えることはできません。

「置かれた場所で咲きなさい」とは、シスター渡辺が宣教師の方からいただいた言葉である「神が植えられた場所で咲きなさい」を、学生たち向けに意訳した言葉だそうです。原文から思うことは、人生の主(あるじ)は自分ではなく、神である、ということです。

自分への神の願いがなんであるのかを考え、神の御心を生きること、神の御旨を受け入れて、その中で感謝と賛美の花を咲かせること、その中に、本当の人生の美しい花が咲きほこるということを、原文は伝えています。

「置かれた場所で咲いた小さく美しき花」である聖母マリアは、「お言葉通りになりますように」(ルカ福音書1章38節)と願いながら、生涯を貫いて神の御心に従い、私たちの人生の模範となられました。その意味で、この著作は、マリアの御心の光を月のように反映しているのだと思います。ですから、渡辺和子さんの、すべての人々へ向けた「母心」は、マリアの御心の反映です。

渡辺和子さんは、この著作を通して、私たち日本のカトリック教徒の母から、日本国民の母のひとりになられたのだと言えるでしょう。

ぜひ、人生に苦悩するあらゆる世代の日本の老若男女に、この読みやすく、わかりやすい珠玉の言葉の著作をお勧めいたします。


2012年7月14日 (土)

美智子皇后の実弟、正田修夫妻カトリックの洗礼を受けられる

皆様に、喜びのお知らせをいたします。

私の信頼できるカトリック教徒の知人からの情報によりますと、今年に入ってから、皇后・美智子様の実弟である正田修・素子夫妻が、都内の教会でカトリックの洗礼を受けられたということです。

正田家は、美智子様の祖母きぬさんが昭和2年にフランス人宣教師ヨセフ・フロジャック神父より洗礼を受けられてから、カトリックには縁の深いお家柄です。きぬさんの夫であった正田貞一郎氏も、戦後、昭和24年に関口教会でカトリックの洗礼を受けられています。また、美智子様の母上である冨美子さんも、臨終の間際に洗礼を受けられ、実妹の安西恵美子さんも洗礼を受けられたとのことです。

美智子様がカトリックのミッションスクールで育ち、聖心女子大学を卒業されたことは、あまりにも有名ですね。
美智子様は、カトリックの精神が育んで誕生した、日本の新しい時代の皇后である、と私たちは胸を張って言えるのではないかと思います。

さて、最近テレビでどなたかが、「今の時代、人格と品格を守るのがとても困難になった。」と言っているのを耳にしました。現代の発達したコミュニケーションの拡大による情報の洪水の中で、人格の尊厳と品性を破壊する様々な言葉と表現が様々なメディアから、無制限に流れてきます。

私は、現在のインターネット時代の新しい情報社会とコミュニケーションの発達そのものの全てを否定しているのではありません。インターネットの発達によって、私たちは必要とする情報が瞬時に手に入るようになり、また、インターネットコミュニケーションの発達によって、国家の壁が崩壊し、人々は必要とする時にすぐに交流ができるようになりました。人々の心が開かれ、知的欲求が満たされ、孤独が癒され、真実が明らかになってきています。それらの善の側面は、私たちの社会の刷新に寄与し、省資源、省エネルギーにも貢献しています。

しかし、一方で、負の側面は異常なほどの支配を広げています。私たち、特に現在の子供たちと若者たちは、物心がついた時から、インターネットやテレビ、映画、漫画、ゲーム、様々なマスコミを通して、退廃した下品な多量の情報に慣らされ、そのような情報を共有することで連帯を見出し、協調しています。「協調性」という言葉がもてはやされ、至上の価値とされる日本社会の中で、極めて世俗的な流行に同調し、心を開かなければ、寛容性の欠如と見なされ、「社会不適応」の烙印を押されてしまうかのようなご時勢です。「協調性」の基準をどこに置くのか、社会的寛容とは何なのか、私たちが守らなければならない人格の尊厳と品性とは何なのかについて、緊急に思い巡らさなければならない時期に来ているのではないでしょうか。

現在の日本の世俗文化の象徴的存在であり、大きな影響を与え、メディアを支配しているとも言える吉本興業などのお笑いや、刺激的な企業CMなどは、目と耳をふさぎたくなるような品性の欠如したいいかげんな言葉と感性、表現を機関銃のように乱射し、無防備で感受性の強い若者たちに影響を与え、その退廃した文化と生活表現を伝染させています。感受性の退廃は、生活の退廃へと導き、家庭の退廃、共同体の退廃、経済活動の退廃、そして国家の退廃へと導いていきます。

メディアに関わり、実質的に大きな社会的影響力を持っている人々は、表現と言論の自由を注意深く気高く駆使しなければ、未来の社会の存亡に関わってしまうということを真剣に自覚しなければいけません。そのような真剣な社会的配慮の欠落がもたらす重大な結果はすでに私たちの精神性に現れ始めており、今後20年、30年、50年後にさらに重大な結果をもたらすことでしょう。

さて、天皇家が日本国民統合の「象徴」として、国民に与えられた恵みであるならば、皇室が懸命に表現している品位と美は、本来全ての日本国民が平等に共有すべき、日本人の心の美徳ではないでしょうか。

よく、皇室のことについて、「私たち一般市民には縁遠い世界だ。」とか、「私たち下々の者には関係がない。」という表現を耳にしますし、それは一種の妬みの表現でもあり、自分たちの現実からの諦めの表現とも思いますが、本来、人間の尊厳と品位に、身分の上下や社会的地位は関係がないと思います。

むしろ、市井の中で、認められなくとも小さな生活を誠実に生きようとして、神や仏を裏切らない生活をしようと懸命に生きている人々の中に、偽りではない真の品格が存在するということを私たちは体験的に、そして本能的に知っています。創価学会や立正佼成会、実践倫理会などの新興団体の興隆は、日本人が本来所有しており、求めている人格の尊厳と品性への憧憬を提供しようとしているからでなないでしょうか。


私たちカトリック教徒は、神から与えられた人間の本来の人格と品性の気高さのことを、「聖性」と呼びます。カトリックでは、「聖性を生きることは、すべてのカトリック教徒の義務である」(教皇ヨハネ・パウロ2世)とまで教えます。

「私は聖人ではないから。」とか、「修道院でなければ、聖なる生活はできない。」と考える人々がカトリック教徒にも存在しますが、それは大きな勘違いです。聖性とは、本来、私たち全ての人間の本性に注がれている神の恵みなのです。それを自己の中に見出し、聖性を生きようと決意することは、神から与えられた本来の自分のいのちと人間性の美しさに素直に従うということです。

「本当の自分を生きる」と宣言して、動物的本能のままに享楽的、あるいは退廃的な言動で生活しようとする人々がいて、それが寛容だと受けとめられ、そのほうが正直だと言われたり、世間的に魅力的に語られたりもしますが、それは、神が与えてくださった人間のいのちの恵みの本来の品位と美を見つめずに軽んじる、途方も無い神への忘恩と侮辱なのです。

人間同士のコミュニケーションを隔てていた壁が崩れ、インターネットと携帯電話、簡易コミュニケーション媒体が劇的に普及した現在、私たちは、以前より無防備になり、退廃した無差別な情報との接点が過剰に増えています。その意味で、私たちが聖性を生きるためには、以前に増して、私たちの内にある聖性を守る努力と決意が必要となってきています。

たとえば、電車の中で大部分の男女が携帯電話やスマートフォン、携帯端末を操作してメールやインターネット、ゲームなどを利用している現在の状況は、私には、ぞっとするほどの一種異様な状況と感じられます。

携帯端末の普及する以前は、電車の中では読書したり、疲れを休める為に仮眠したり、物思いにふける人々がいたり、同伴者と生きた会話をする人々がほとんどでした。電車の中は、沈黙のうちに心を休め、思索する静けさに満ちていましたし、あるいは生きた人間の交流の場だったのです。しかし、現在は、電車の中はあらゆる雑多な情報との接触の場となり、同伴者がいても携帯をながめている人々がいます。人間の生きた交流が失われ、心と霊を休める場ではなくなりました。

私たちカトリック教徒は、よく電車やバスの中でロザリオなどで祈るようにと勧められてきましたが、現在の日本の一般の社会状況は、「電車の中で静かに祈る」ような心と感性は、ほとんど失われてしまったと言えます。

カトリック教会にある生活様式の一つである観想修道院の生活は、ある意味で「象徴」です。天皇家が日本国統合の象徴ならば、観想修道院の生活は、キリスト教的な聖性の生活の象徴です。修道生活は、「囲い」と呼ばれる禁域を持ち、聖性への望みを破壊する様々な事象と知識から、自分たちの礼拝と労働の生活を守ります。

私が北海道北斗市・渡島当別のトラピスト修道院で生活した2年余りで私が理解しえたことのひとつは、氾濫している雑多な情報から解放され、創造主の愛のみを思索し、シンプルに生きる礼拝と労働の生活が、どれほど愛と喜びと心の平和にあふれているかということでした。それは確かに、聖性への望みが、本来人間が持っている真の願望であることを感じさせてくれました。

社会生活を送る私たちも、この異常な情報の氾濫の時代、「心と霊の囲い」を守る決意が、一段と必要になってきているのではないでしょうか。

現在の情報社会の中では、いかに多くの情報と接点を持ち、いかに雑多な知識を受け入れて豊富に持っているか、いかに多くの情報を使いこなすかが社会的に優位にたつことの条件になっているかのようです。知識の優位が、人間性の優位のように思われています。

しかしそれは、真の識別をもたない個人個人が多量の情報と接点を持つことが可能となった今の時代に、重大な倫理的危機と混迷をもたらしています。情報との接点が過剰に増え、「情報を入手せよ」という企業市民社会からの圧迫が個人に迫り、それが人生を成功と幸福に導くと思わされ、人々はどう取り扱っていいかわからない雑多な情報に振り回されていきます。そのことによって、人々は、経済的利益を生み出す欲望の拡大と全ての世俗的事柄の受容を要求され、内面的混乱のうちに、善と真実による識別の目を失ってしまうのです。それは結果として、聖性の喪失と破壊へと至ります。

私たち信仰者はこの重大な時代、自分たちの「心の囲い」に、入れても良い情報と、入れてはならない情報、入れても良い価値観と、入れてはならない価値観を、しっかりと見極めていく必要があると思います。それは、この社会の現実の中にあって、神の国を表現し、生きていくために、絶対に必要なことでしょう。

「心の囲い」を持つことは、社会からの逃避ではありません。人間のコミュニケーションを阻む壁を作ることでもありません。人間性を堕落させる退廃と混乱からの防衛であり、人間同士のコミュニケーションの中で自分の心に築かれている神の家、神の国を示すことです。それは、神の御心にかなうことであり、神が限りない愛のうちに創造された人間と世界の本来の美への信頼を生き、それを守ることに協力することです。

ですから、それは逃避と言うよりは、気高い戦いです。修道生活の「囲い」が聖性を守るための霊魂の戦いの象徴なのですから、社会生活を送る私たちの聖性の戦いは、より最前線において、実戦的に、多様な手段と方法で行われていく必要があると思います。

願わくは、私たち日本国民、日本社会、日本国が、キリストと出会い、キリストの愛を見出し、神が与えてくださる聖性に満たされていきますように。

それは、神が与えてくださった本来の姿の、新しく美しい国を築いていくということです。


2012年7月11日 (水)

素晴らしい聖体訪問

皆様は、聖体訪問という素晴らしい習慣が、カトリック教会にはあるのをご存知ですか?

聖体をご存じない方々のためにご説明しますと、聖体とは、ミサの中で聖別され、聖変化されたパンとぶどう酒のうちにまことに現存される、主イエス・キリストの御体と御血のことです。

主イエスは、十字架上の死に渡される前の最後の晩餐を弟子たちと共に過ごされ、ユダヤ人の祭りである過越しの食事をされました。その時、パンとぶどう酒を分かち合われ、この聖体を制定されたのです。

「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これは私の体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くに人のために流される私の血、契約の血である。』」(マタイによる福音書 26:26-28)

この甘美な最後の晩餐の神秘の中で制定された聖体であるパンを、カトリック教会の信徒は、最後の晩餐の再現であるミサの中で拝領します。これは、2000年間続いているカトリック信仰の至宝であり、根幹です。

キリストの御体であるパンと、キリストの御血であるぶどう酒は、私たちの霊的いのちの糧となるのです。私たちのいのちが、キリストのいのちと結ばれ、私たちはキリストのいのちによって、生かされていくのです。ですから、私たちは、いつもキリストと共におり、キリストが私たちの心と霊と体の神殿の中に、住まわれます。

私たちは洗礼によって、キリストの死と復活に結ばれて罪を贖われ、新しいいのちを生き始めます。その新しいいのちを支え、養っていくのは、聖体の中にまことに現存される、キリストのいのちなのです。

そして、この聖体は、ミサの中で配られ、拝領されるだけではありません。
伝統的に、カトリック教会の聖堂の中心には、聖櫃という聖なる箱が置かれ、その中に、聖体であるパンが安置されています。ですから、カトリック教会の聖堂を皆様が訪れるなら、いつでも、キリストの御体である聖体が、出迎えてくれるのです。これは、キリストが、いつも私たちと共におられるという明確な生きたしるしです。


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御聖体が安置されている聖櫃


そして、聖堂に安置されている御聖体を訪問して礼拝する習慣のことを、聖体訪問と言います。この習慣が歴史的にカトリック教会に根付いたのは、信仰心の表明として、実に当然なことでした。そして、その訪問を霊によって促し、導くのは、御聖体のうちにまことに現存されるキリストの、愛による招きなのです。

私たちカトリック信徒は、この愛の招きを霊的に感じるなら、聖体訪問への強い渇きを感じます。聖体のうちにまことに現存されるイエスの御心は、愛の生ける泉だからです。この泉の水を飲む者は、渇きを癒され、主が共におられるという確信によって、喜びと平安に満たされます。

聖体訪問をし、聖体の前で祈り、礼拝することは、聖体のうちにまことに現存される主イエスとの霊と心の対話であり、交流、すなわちコミュニケーションです。イエスは愛のうちに聖堂の聖櫃の中に留まり、皆が訪問してくれるのを待っているのです。

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さて、カトリック信徒の皆様、私たちの日常生活では、家族や親しい友人たちと集まって食事をします。そして、時折、離れて暮らす肉親や兄弟、親戚、友人たちを訪問します。訪問して交わり、対話して共に時間を過ごすことは、何よりも素晴らしい相互の尊重と友愛、理解を生みます。

それに比べて、私たちの救い主であり、神である主イエスに対する、私たちの態度はどうでしょうか?
日曜日のミサに行き、聖餐を共にし、聖体を拝領しますが、それ以上のことは望みません。

「私は忙しいし、ミサだけで精一杯。それ以上のことを信仰に求めません。神様は、私のことを全部わかっているし、あれこれ祈りに時間をかけていたりしたら、社会生活におけるバランスが悪くなってしまいます。祈るより、社会奉仕のほうが大切だし、信仰に逃避したくありません。」と考えてはいないでしょうか?

確かに、主イエスは、私たちのことをすべてわかっていることでしょう。多忙な社会生活の中で、聖体訪問のために時間を割くことは、いくらかの自分の時間を犠牲にすることになるかもしれません。そして、「宗教の信仰にのめりこむと危険だ」と、信仰への懐疑に満ちた現代社会は教えています。

しかし、それでも主イエスは、聖堂の聖櫃の中で、静かに私たちを待っておられます。そして信仰と愛の表明と、霊的で人格的な交流を求めておられます。現代、カトリック教会では、聖体訪問をする人が、あまりにも少なくなってしまいました。多忙で合理主義に支配された現代の日本社会において、単純な信仰の表明と神との時間を優先する価値観が、失われてしまっています。日本に住むカトリック教徒も、その影響を大きく受けているのです。

皆様、ご自分の教会で、また都会のカテドラルや旅先の教会などで、ぜひ御聖体を訪問し、待っておられる主イエスにご挨拶してください。そして、心の思いや願い、悩みなどを話してみてください。誰よりもあなたを理解し、あなたの全てを知っておられる主イエスは、ずっと話を聞いてくださり、あなたを信仰の火と愛で満たし、最善の道へとあなたを導いてくださいます。時間が無いのなら、ご挨拶するだけでも良いと思います。キリストの現存への感謝と愛を、ぜひ実践的に示してください。聖体訪問は、空虚で学問的な空想ではありません。生ける神の愛の現存への、実践的な信仰の表明です。

私も日々、仕事で多忙ですが、時折、聖体訪問をすることに、昔から時間を取ってきました。特にこの習慣が身につくきっかけになったのは、20歳の頃、秋田の聖体奉仕会に初めて巡礼して、修道院の聖体礼拝に参加したことだと思います。その後、フランシスコ会に入会した後、志願期、修練期と、毎日の生活の中で、しっかりと聖体礼拝の習慣をしつけられました。

その後、修道会は退会し、現在は社会生活をしていますので、毎日とか、毎週というわけにはいきませんが、主が時間を用意してくださった時、チャンスを見つけて、聖堂を訪れ、御聖体を訪問するようにしています。ですから、聖体訪問が素晴らしい習慣である、ということは、私の体験からも実感していますし、告白できます。

聖体訪問をして、主イエスと霊的に、そして人格的に交わり、霊的な対話を重ねていくことは、はかり知れない相互理解を生んでいきます。聖体を前にして、何を語ったら良いかわからないのなら、ただ沈黙のうちに、主イエスの愛の現存の前に静まるだけでも良いと思います。愛し合う人々は、ただ黙って共にいることも可能なのですから。私たちの霊が、主イエスの霊と交流し、イエスの思いと願いを、霊的に受け入れ、理解できるようになっていくことでしょう。それは、知的解釈や理解を超えた、霊による一致と交わりです。

私たちは、礼拝と信仰の表明に時間を優先して割くことによって、社会的なバランスを失うのではありません。むしろ、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書 3:16)神の御心を理解する恵みへと導かれ、霊的な支えを確かに受けて、真の意味での信仰生活の平行感覚を得、世間に惑わされない信仰の成熟に導かれるのです。

時折聖体訪問をすることで、私たちは「神との時間を優先する」価値観を表明します。聖体訪問をすることで、私たちは「見えない事実を確信する」信仰を表明します。聖体訪問をすることで、私たちは御聖体のうちに生きておられる主イエスへの燃える愛と信仰と希望を表明します。

この時、私たちは聖書の次の言葉を実践しているのです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 」(ヘブライ人への手紙 11:1)

中世イタリアの謙遜な聖者、アシジの聖フランシスコは、霊感のうちに次のように語りました。

「生ける神の子キリストが、祭壇の上、司祭の手の中におられる時、
 全人類は震えおののき、全地はゆれ動き、天は喜び踊るべきです。

 ああ、なんと驚嘆すべき偉大さ、なんと驚嘆すべき御稜威!
 ああ、なんと偉大な謙遜、なんと謙遜な偉大さ!

 全宇宙の主、神、神の御子が、私たちの救いのために、
 小さなパンの中に隠れるほど、へりくだられるとは!
 兄弟たち、神の謙遜を見なさい!             」

                (『全兄弟会にあてた手紙』より)
     

地が震えおののき、天が歓喜に満たされるほどの偉大な謙遜によって、
小さなパンとなって、私たちの主は、共におられます。
私たちの霊的いのちを支える食べ物となって、主なる神は共におられます。
この、人間の想像をはるかに超えた謙遜の前に、悪魔は敗北して逃げ去ります。

この主イエスの、人間の想像をはるかに超えた愛が、御聖体のうちにあふれ、
あなたが来るのを待っておられます。

どうぞ、時折、御聖体の主イエスを訪問することに時間をとり、娯楽よりも優先してください。
この素晴らしい至上の神の恵み、御聖体の主イエスを、孤独のままにしておかないでください。

神の至上の愛に、愛と誠意で応えていきましょう。

聖堂の中心、聖櫃の中、御聖体のうちにあふれる主イエスの愛の鼓動を、心を鎮めて聞いてください。

聖体訪問によって、主イエスとの間の相互理解が、必ず、より一層深まっていくことでしょう。

主イエスは、私たちを待っておられます。


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