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2017年9月 5日 (火)

「戒めのムチ」 ~秋田の聖母の日2017に寄せて~

「戒めのムチ」 ~秋田の聖母の日2017に寄せて~

無神論共産主義独裁国家、貧しい小国である北朝鮮によるICBM用の水爆実験が行われました。
極東と世界は、新しく高度の緊張のステージに入りました。

ファティマで汚れなきおとめマリアは、無神論共産主義を掲げるロシア(ソビエト)を、「戒めのムチとなるでしょう」と言われました。人々が悔い改めないならば、無神論共産主義を拡大していくロシアが「戒めのムチ」になるだろう、と。

そのことを誠実に見つめると、ひとつのことが見えてきます。つまり、「戒めのムチ」ならば、ムチを持つ人格的存在があるはずです。突き詰めて考えていくならば、無神論共産主義の闘争の存在を「赦され」、世界の回心のために「限定的に」継続させているのは、まさに、「神の手」なのだという結論が導き出されます。

この「神の手」が、世界を神への回心に導くために、厳しいムチを振るわれるのだとすれば、必然的に、神の存在を信じる自由主義・資本主義社会へのアンチテーゼである無神論共産主義の中にある「真実と正義」が、ムチのとげであるのだと言えます。

この厳しいムチは、個人の幸福の追求を求める自由主義社会を恐れさせ、果てしない成功を追求する資本家たちを辱め、私腹を肥やす財産家たちを地獄へ突き落します。

それゆえに、資本主義と自由主義の象徴であるアメリカ合衆国にとって、敵でしかないのです。

しかし、もし、ファティマで汚れなきおとめマリアが伝えたように、「神の戒めのムチ」なのだと、アメリカ合衆国を始めとする世界中のクリスチャンが真に自覚するならば、極東の敵対と恐るべき緊張は、お互いの回心こそが大切なのだと気づき、お互いのへりくだりの中で和解に向かうでしょう。そして、お互いを「欠けたところを満たす」存在だと認識するなら、ムチのとげで覆われた貧しい小国の意固地な無神論共産主義の心を開かせ、交わりの回復をもたらすことができるでしょう。

トランプはアメリカの旧世代の憧憬をひきずっており、彼が今、大統領であることは、神の摂理だとは言え、世界にとってあまりにも不幸です。

対話の扉が開かれるように、秋田の聖母と共に、秋田の聖母の悲痛な願いであったロザリオを唱え、第三の預言の成就の回避を祈りたいと思います。

”天の火”が「戒めのムチ」となって極東と世界に降り注ぐことがありませんように。

世界に今必要なのは、ロザリオの祈りです。


「全人類のあいだの平和。あなた方は皆、神の子どもです。イエスのまことの兄弟です。それでお互いどうしは兄弟です。この兄弟愛のうちに生きることにこそ、人間どうしのあいだの平和の泉があります。なぜなら、平和のたまものは、愛の道にだけあるからです。愛の道は、神の法とその掟を守ることにあります。この掟 によって、神を愛し、自分自身と隣人を愛するように教えられています。正義と真理と愛に基づく和合は、この掟によってこそ、つくられるのです。人間が平和の神を歓迎せず、かえって、頑固に否定し拒絶するかぎり、人権と社会権の利益は保証されません。

神の掟を守るどころか、日増しに、しかもこれを公けに犯すとき、人間は不秩序と不正と利己主義、そして暴力の道を進んでいきます。人間はこのためにこそ、戦争の脅威下にあります。私は世界のあらゆる道に、なんと大きな苦しみがまき散らされているのを見ることでしょう!」

     (司祭のマリア運動・ステファノ・ゴッビ神父が聖母マリアから受けた預言的メッセージ 1982年1月1日)

2017年9月8日
聖マリアの誕生の祝日

カトリック聖霊刷新に連なる三位一体の預言奉仕者であり、
秋田の聖母の使徒、そして終わりの預言奉仕者である、

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2015年8月20日 (木)

「これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしは無くなるでしょう。」~秋田の聖母の日2015に寄せて~

秋田の聖母を訪れる皆様、

秋田の出来事と誠実に向き合うということは、慈しみに満ちた愛なる創造主、三位一体の神の御顔と誠実に向き合うということです。三位一体の神が人間の救いを望んでおられること、創造主として、何よりも切実にそれを望んでおられるということを私たちの心の中心に据えながら、秋田のメッセージについて思い巡らしていきましょう。

1973年10月13日、桂木の聖母像から笹川カツ子姉妹に語りかけた聖母マリアは、全世界のカトリック教会を震撼させる警告の預言を伝えられました。それは、聖母像から涙が流れ始める1年2か月ほど前のことでした。

秋田の聖母 第三のお告げ 1973年10月13日

「 愛する私の娘よ、これから私の話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい。前にも伝えたように、もし人類が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。その時、御父は大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々をうらやむほどの苦難があるでしょう。

その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって司教、司祭のために祈ってください。悪魔の働きが教会の中まで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒されて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、御父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることが私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の許しは無くなるでしょう。勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと償いの業に励まなければならないことを、ひとりひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから。 (以下、略)  」

当時、米ソ冷戦時代、東西対決の真っ只中であり、そして、カトリック教会では、第二バチカン公会議直後の戸惑いと大きな混乱の中で、この天罰としての大戦争や天変地異を連想させる預言は、実に切実で現実的な神からの大警告であると、日本と世界の良心あるカトリック教徒たちは受けとめました。

その後、米ソ冷戦時代は終わり、ヨーロッパは無神論共産主義からの回心をし、和解と一致へ向かいました。世界的には、共産主義者の善意を理解しようとする融和の動きも進んでいます。カトリック教会の第二バチカン公会議後の混乱は、時を経て、歴代教皇の誠実なリーダーシップの中で、公会議の精神は徐々に浸透し、積極的に理解され、教会の大分裂の危機は少なからず回避されたと言えます。

秋田の預言の大警告は回避され、すでに過去のものとなり、過ぎ去ったのでしょうか?預言の警告が成就せず、過ぎ去ることもあることは聖書的にも確かなことです。

しかし、教会の大分裂は回避されたとは言え、弱体化と信仰の衰退は今も世界ではっきりと進んでいます。そして、日本の秋田で行われたこの聖母の預言は、単に西欧のキリスト教を土台とした社会だけに向けられたものではないはずです。日本を始めとするアジアはどうでしょうか。日本国の国家主義的な右翼イデオロギーに基づく歴史認識に対する不誠実な態度、アメリカとの連携によるアジアの共産圏への敵視政策などによって、アジアの和解、アジアにおける相互の悔い改めは進んでいませんし、むしろ、後退しています。

御父なる神が、時として、人類の歩む道を正すために、天罰として、人間社会に災難、苦難を送られることは、聖書に明確に書かれている信仰における真実です。バチカンが積極的に理解し、受け入れている1917年のポルトガル・ファティマの聖母の御出現とメッセージでも、人類が悔い改めなければ、天罰としての戦争が到来し、いましめの鞭としてロシアによる無神論共産主義が拡大することが伝えられました。

時として、神学者も聖職者も、、一般の信仰者も、このはっきりと聖書的である信仰の真実を見てみぬふりをして、神のいつくしみと愛に関する霊的指導を正しく方向づけるために、三位一体の神への信仰を食べやすい飴玉に見せようとしますが、しかし、創造の神の裁きの座と被造物である罪を抱えた人類の歩みの間には、確かに、真理と愛と正義に基づく一種の緊張関係が存在することは真実です。

そして、そのことが明確に示されたのが、秋田の出来事でもあるのです。

人類を愛によって創造された真理の神は、人類に自由を与え、救い主である御子キリストの贖いの愛とゆるしによって人類を導き、神の正義によって道の誤りに気づかせ、そして、救済の歴史の完成に導いていきます。

そして、この秋田の第三のお告げには、その内容の中に、日本をはじめとする世界の多くのカトリック聖職者たち、神学者たちを苦悩の中に落とし入れる、とても重大で深刻に憂慮すべき一言が含まれていました。

それは、「これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしは無くなるでしょう。」という言葉です。

イエス・キリストは、人類の罪のゆるしのため、神との和解のために、あわれみ深い御父である神から遣わされた神のひとり子です。教会は、イエス・キリストの十字架上の贖いの奉献と復活の秘儀に結ばれて、人類の罪のゆるしと贖いの、神との和解の御計画のために存在しています。

つまり、この預言の言葉は、言い換えるならば、「これ以上罪が続くなら、教会の使命も効力が無くなる、イエス・キリストの無限の罪の贖いの力も役に立たなくなる」ということを伝えているのです。

御父なる神の怒りの中で大天罰としての天からの火(それは天変地異、あるいは大戦争でしょうか?)が起こりえても、あるいは、教会内へのサタンの力の侵入、サタンに幻惑された人々の存在がもはや現実的であったとしても、「罪のゆるしが喪失される」とは、いったい、どういうことなのでしょうか。

これは、キリスト教を信じる者たちにとって、まったく受け入れがたい恐るべき言葉でした。ですから、当時も、今も、この一言を理由に、秋田の預言を否定する聖職者たち、信徒たちが存在します。

「こんな預言はキリスト教的ではない。偽物だ。聖母がこんなことを言うはずがない。」と。

もし、安田貞治神父が、その著作でこの預言の詳細を明らかにしていなかったなら、日本のカトリック教会権威者たちによって、この預言は完全に封印されていたかもしれません。

しかし、この預言を自分の宗教観や思い込みで曲解することなく、聖書を全体として見渡しながら、天上からの警告として正しく受け止めようと信仰によって誠実に見つめるならば、この「罪のゆるしはなくなるでしょう。」という言葉の意味も理解することが可能となるでしょう。

まず、この第三のお告げの冒頭には、「もし人類が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。」という言葉があります。「もし、人類が悔い改めないならば、」という大前提が置かれています。「悔い改め」、それは、秋田の出来事を貫く重大なキーワードです。

御父なる神の怒りの顕現、人間の悔い改め、そして何度でも悔いる人間の罪を赦すあわれみ深い神との和解、それは、旧約、新約聖書を貫く、聖書の一貫したテーマです。私たちが勘違いしてはならないのは、創造主なる神はあわれみ深く慈しみに満ち、罪を悔いる人間を限りなく赦される愛の神ですが、怒らない方ではなく、時として、真に救いと愛のために、創造主としての神秘的な怒りを発出される天の御父である、ということです。

自分たちの哲学や宗教観によって、創造主なる神の御顔の本質さえ偽造して偶像化しようとする現代に向かって、そのことを明確に示しているのが、秋田のメッセージでもあるのです。

そして、そのような御父なる神の怒りの顕現が来た時のために、「その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。」と預言に記されています。

秋田の出来事を貫く二つ目の重大なキーワード、「ロザリオの祈り」が伝えられています。

「ロザリオの祈り」によって示されているのは、神との和解のための、聖母マリアが与えられたとりなしと干渉と仲介の、特別な役割と力です。聖母マリアは、罪深い私たちのために天が与えてくださった力強い擁護者、守り手なる御母です。なぜなら、聖母マリアは、真に、私たちの母親であり、真に、主イエスの御母であり、真に、聖霊の花嫁でもあるからです。だからこそ、最も三位一体のそば近くでとりなしてくださるのです。

聖母は同じ第三のお告げの中でわかりやすく明確に語っています。

「ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、私だけです。私に寄りすがる者は、助けられるでしょう。」

さて、「ロザリオ」という言葉は明確にロザリオの祈りを示していますが、もうひとつのキーワードである「御子の残されたしるし」とは、とても抽象的な表現であり、あまり用いられない表現でもあり、それぞれの信仰者の見地によって、様々な解釈ができる言葉であると思います。実際、今までもこの言葉に迷いを感じる方々が多くおられました。

私は、「御子の残されたしるし」とは、カトリック教会が伝える聖なる七つの秘跡を意味していると考えます。

「その時」、それは大天罰の時です。そして、「武器」という言葉が示されています。武器とは、当然、戦いの道具です。

それでは、なんの戦いでしょうか?大天罰の中での、神と和解するため、罪のゆるしを得るための戦いです。
すなわち、それは大天罰の中で救いを得るための戦いです。

それでは、ここで示されている「武器」とは、神との和解のため、罪のゆるしのため、救いのための戦いの「道具」である、ということです。カトリック教会に与えられている救いのための戦いの道具、それは秘跡です。

そして、秘跡の形成の歴史とは、まさに、聖書の中に示され、残された御子の言葉と行いの「しるし」に基づいて、教会が霊感の中で制度化してきたものです。ですから、私は、この第三のお告げの中で言われている、「御子の残されたしるし」とは、七つの秘跡を意味している、と理解しました。

そして、「秘跡のしるし」によって示されているのは、まさに、秘跡が、神との和解のため、罪のゆるしのために天上から人類に与えられている「罪のゆるしのための恵みの力」であるということです。なぜなら、洗礼も、堅信も、聖体も、ゆるしの秘跡も、叙階も、婚姻も、塗油も、究極的には、すべて神との和解のために与えられている恵みのしるしだからです。

ですから、大天罰の起きる状況の中でも、秘跡によって、神との和解の恵みは働いていく、ということを預言は伝えています。

そして、この預言では次の文脈で、教会内へのサタンの力の侵入と、教会権威者たちの間の分裂、サタンの働きが奉献者たちの中に入り込み、司祭、修道者たちの堕落と弱体化が起こることが預言されています。

そして、その預言の流れの最後に、「これ以上罪が続くなら、もはや罪の許しは無くなるでしょう」という言葉があります。

そうです。罪のゆるしのために存在するキリストの教会が弱まっていくならば、罪のゆるしが喪失されていくのは当然です。罪のゆるしのために神から与えられた秘跡の奉仕者たちである司祭たちが弱まっていくならば、罪のゆるしが失われていくのは当然です。罪のゆるしのために祈り、生涯を捧げる修道者たちがサタンに翻弄されていくならば、罪のゆるしが失われていくのは当然です。

なぜなら、教会が弱まるならば、人類が罪のゆるしと出会う機会、神と和解する機会が失われていくからです。ですから、この第三のお告げは、極めて終末的な状況を示した預言であるということができます。

キリストは言われました。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカによる福音書18章8節)

人類にとって、教会との出会い、罪のゆるしとの出会いが失われていくということは、すなわち、「悔い改め」の機会が失われていく、ということです。自分の罪を意識し、人間が皆罪人であるという基本的な理解を失っていくということです。

救い主イエス・キリストは、その伝道の公生活を開始した第一声として、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音 1章15節)と言われました。

キリスト教の大前提である「悔い改め」がなければ、あわれみと慈しみの神との和解はありません。

秋田の預言の警告は、この「悔い改め」無き時代の到来のために聖母から伝えられました。

今、人類に蔓延しつつあるのは「悔い改めの喪失」そして、「罪の意識の喪失」です。これは、教会の弱体化と密接に結ばれています。だからこそ、秋田の預言の警告は過去のものになったとは言えません。

人類は、新しい世界秩序の模索の中で、自由と経済成長、価値観の相対化を偶像化することによって、罪の認識と、創造主である神との和解を誠実に見つめないようになってきています。

御父なる神の怒りは、このような、罪の恒常化された、個人個人の悔い改めを失った人類社会に向けられています。

このような社会の中で、「罪のゆるしは失われていく」のです。罪のゆるしと出会う機会、あわれみ深い愛とゆるしの神との出会いが失われていくのです。

教皇フランシスコは、その教皇職における就任直後の最初のお告げの祈りのメッセージで、大群衆に向かって次のように語りかけました。

「兄弟姉妹の皆様。神のみ顔は、つねに忍耐強く、あわれみ深い父のみ顔です。皆様は神の忍耐について考えたことがあるでしょうか。神がわたしたち一人ひとりに示される忍耐について考えたことがあるでしょうか。これが神のあわれみです。神はつねに忍耐を示されます。わたしたちに忍耐を示されます。わたしたちを理解し、わたしたちを心にかけ、わたしたちをうむことなくゆるしてくださいます。そのためにわたしたちは、痛悔の心をもって神に立ち帰らなければなりません。詩編はいいます。”主のいつくしみは大きい”(詩編103・8参照)。

(中略)

問題は、わたしたちがゆるしを求めるのにうむことです。ゆるしを求めるのを望まず、それにうんでしまうことです。神はうむことなくゆるしてくださいますが、わたしたちは、時としてゆるしを求めるのにうむのです。ゆるしを求めるのにうんではなりません。決してうんではなりません。神は愛に満ちた父です。このかたはつねにゆるし、わたしたち皆に対してあわれみの心をもっておられます。わたしたちもすべての人にあわれみ深くなることを学ぼうではありませんか。人となられた神のあわれみを手に抱かれた、聖母の執り成しを祈り願います。 」(教皇フランシスコの2013年3月17日の「お告げの祈り」のことば)

この教皇フランシスコの第一声とも言えるメッセージによって、教皇フランシスコは、ご自身の、神のいつくしみの使徒としての使命を明確に示されました。

私はこのメッセージを読んだ時に、「ローマ教皇は、秋田の預言と闘い始めた。」と強く感じました。

私は誤解を恐れずに言いたいと思います。フランシスコ教皇は、使徒ペトロの後継者として、使徒の頭として、秋田のメッセージを示された天上と格闘を始めたのです。

使徒ペトロの後継者である教皇フランシスコは、全教会を代表して、御父なるいつくしみの神に、自らの信仰の確信を告白し、訴えているのです。それは、秋田の預言を示された天上への訴えです。嘆願です。それは、ソドムのためにとりなし、嘆願したアブラハムのようです。(創世記18章)

「主よ、あなたは忍耐強い方です。怒るにおそく、あわれみ深い方です。あなたは、うむことなくゆるしてくださいます。あなたは愛に満ちた父です。あなたはつねにゆるし、わたしたち皆に対してあわれみの心をもっておられます。そのために、私たちは痛悔の心を持って、悔い改めます。」と、教皇は言っているのです。

それは、御父なる神が忍耐をやめて正義としての怒りを顕現することなく、あわれみと慈しみの神の御顔を示し続けて下さるためです。

ですから、秋田の預言を知る私たちも、神のいつくしみの使徒である教皇フランシスコと心を合わせて、御父なる神に叫ばなければいけません。

「主よ、あなたは忍耐強い方です。怒るにおそく、あわれみ深い方です。あなたは、うむことなくゆるしてくださいます。あなたは愛に満ちた父です。あなたはつねにゆるし、わたしたち皆に対してあわれみの心をもっておられます。そのために、私たちは痛悔の心を持って、悔い改めます。」

秋田に巡礼に行く皆様、ぜひ、この嘆願を、信仰告白を、神に捧げてください。

これが、秋田の預言を知らされた者たちの、今の時代における神との格闘、対話です。教皇フランシスコと心を合わせて行う、信仰告白による嘆願です。

御父なる神よ、あわれみといつくしみの時を取り去らないでください。
人類に、御子イエス・キリストによる罪のゆるしと出会う機会を、まだ与えてください。

秋田を知る私たちは、聖母の願いに応え、悔い改め、ロザリオを唱え、償いの生活を心掛けます。


2014年9月14日 (日)

「世の多くの人々は主を悲しませております。」~秋田の聖母の日2014に寄せて~

秋田の聖母の出来事を思い巡らす時、私たちは限りない福音の喜びを感じるのではありません。それは私たちにとって、いつも願っている福音の自由と喜びを体感することではなく、心地よいことでもなく、むしろ苦しみと痛みを伴うことですが、しかし、神が秋田を訪れる者に願っていることは、神の痛みと悲しみに触れることなのです。

そうです。私たちが秋田を訪れて思い巡らすべきなのは、神の悲しみ、神の涙です。

聖母は笹川カツ子姉妹に伝えられました。

「世の多くの人々は主を悲しませております。」(秋田の聖母第二のお告げ

秋田の聖母の預言的メッセージの核心とはなんでしょうか。第二のお告げ、そして第三のお告げにみられる大警告の核心とは、「主が悲しみ、怒っておられる」という知らせです。

これは、私たちにとって、「よき知らせ」ではありません。「福音」ではありません。秋田について考え、語ることは信仰者として苦しみを伴うことです。

しかし、秋田の出来事は主と聖母が望まれたことです。

ですから、私たちは、秋田の出来事に真摯に向き合うつもりなら、「聖母からの悲しい知らせ」に向き合わねばなりません。

「世の多くの人々は主を悲しませております。」

信仰者にとって、これほどの悲しい知らせがあるでしょうか。

創造主である主なる神は、私たち人間に、そして私たちの世、つまり、現在の人間社会に喜んではおられません。悲しんでおられ、怒っておられます。

そして、「人類に大いなる罰を下そうとしておられます。」(第二のお告げ

それは、あのノアの洪水(創世記6章-9章)の前夜のようです。ですから、秋田のメッセージは、教会の歴史上、それほどに重大で特筆すべき、全世界へ向けられた神の呼びかけのメッセージなのです。

「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地をご覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。『すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、私は地もろともに彼らを滅ぼす。』」(創世記6章11-13節)

世に満ちる罪と神への忘恩と侮辱、つまり繰り返されていく創造主への裏切りに対して、創造主なる神は悲しみ、怒っている。そして、大きな天罰を下さなければならないと思われるほどに、思い詰められている。

神はいつもニコニコと笑っていて、「何をしてもいいんだよ、大丈夫だよ」と言っている方ではありません。人間の願望と妄想はそれを願いますが、神は創造の喜びに満ちておられる反面、また、被造物への真摯な愛ゆえに、最高の被造物である人間の過ちに対して、激しく悲しまれる御方でもあられます。

神は、悲しみ、涙を流すほどに、人間を愛しておられます。そして、激しく怒るほどに、罪を恐れておられます。

私たちは、秋田で、そのことに向き合わねばなりません。

聖母は笹川姉妹に告げられました。

「わたしは、主を慰める者を望んでおります。」(第二のお告げ

聖母は、第二のお告げの中で、罪人と忘恩者に代わって償いを捧げ、主を慰める者たちを望んでおられます。
秋田のミッションとは、この呼びかけに応えていくことです。

「天の御父のお怒りをやわらげるために、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、御子と共に望んでおります。御父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、御父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。御子と共に、何度もそのお怒りを和らげるように努めました。御子の十字架の苦しみ、御血を示して、御父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりを捧げて、お引止めしてきました。祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、御父のお怒りを和らげることができます。あなたの会にも、それを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。各自の能力、持ち場を大切にして、その全てをもって捧げるように。在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。形にこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするために祈ってください。」(第二のお告げ

このメッセージは、聖体奉仕会に対して与えられたミッションであると同時に、私たち全世界のクリスチャンに与えられたミッションでもあります。

私たちは「主を慰める者」になれるでしょうか?

「祈り、苦しみ、貧しさ、犠牲的献身」、これらは、まさに、現在の世の価値観に真っ向から対立する神の価値観、クリスチャンの価値観ではないですか?経済的利益を生み出すすべての事柄の受容を迫られる現代、私たちは翻弄され、神の真理と愛の真実に従うということの大切さを見失いつつあります。

現在の経済的利益至上主義社会の中にあって生活をする私たちにとって、それは無理なことでしょうか?この聖母の願いは、ある特別な人々へのミッションであって、一般生活をする私たち信徒には関係がないことでしょうか?

ですが皆さん、神は、人間にできないことを望まれる方ではありません。むしろ、すべての人が行うことが可能なことを望まれています。神は創造主です。すべての人間を愛しておられます。ですから、すべての人間が行うことが可能なこと、神を喜ばせるために必要なことを伝えてくださっているのです。

ですから、突然、何か特別な英雄的な行為をしようとする必要はありません。

「各自の能力、持ち場を大切にして、その全てをもって捧げるように。」

大切なのは、このことではないですか?

日々、神への祈りを生活に取り入れ、神と対話しながら、生活の苦しみを受け入れ、清貧の心を大切にし、そして、犠牲の心を持ってすべてを神に奉献すること。

日々の私たちの小さな生活の中で、これらを実現していくこと。これこそが「主を慰める者」の道ではないですか?

私たちが「主を慰める者」の道を歩むなら、それは、まさに、「よき知らせ、福音」ではないですか?
その時、私たちは、創造主なる御父の限りない喜びに結ばれて、「福音の喜び」で満たされるでしょう!

秋田で涙を流し、重大な知らせをしてくださった聖母の願いに応えて、この信仰の小道を歩いてみませんか?
それこそ、世を大天罰から救う私たちの戦いではありませんか?

マリアの汚れなき御心に人生を全面的に奉献しながら、このミッションを始めていきましょう!

私たちが祈りのうちに神への愛に満たされていくなら、それは可能となっていくことでしょう。

その時、マリアの汚れなき御心こそ、私たちの新約の箱舟となることでしょう。