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2011年6月12日 (日)

聖霊による刷新 ~Catholic Charismatic Renewal~


「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、その時には、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、下では、地にしるしを示そう。   」 (使徒言行録2章17-19節)


Pentecost1

本日は、聖霊降臨の主日です。この記念すべき大切な日、約3ヶ月ぶりにブログの更新をいたします。

さて、今回は、私が1998年から4年間、東京・四ッ谷の上智大学で集会に参加していた、カトリック聖霊による刷新(Catholic Charismatic Renewal)についての体験の思い出と、ふり返って今感じていること、聖霊による刷新への参加によって開かれた秋田の聖母に関する考察などを分かち合いたいと思います。

皆様の中には、「なぜ、秋田の聖母マリアについてのブログに、聖霊による刷新について書くのか?」と感じられる方もおられるかもしれません。しかし、私にとっては、とても大切なことであり、いつか書きたいと思ってきたことなのです。なぜなら、私は、聖霊による刷新に参加し、その恵みの働きである「聖霊の満たし」を受け、霊の力に促され、強められて証しのための力をいただき、それによって秋田の聖母マリアについてのホームページを製作公開し、また秋田の聖母マリアのメダイを製作販売することができたからです。また、聖霊による刷新に参加したことによって、聖霊の働きについての視野が開け、秋田の出来事が、まさに初代教会に働いていたような聖霊の導きによることであるのがはっきりと理解できました。

聖霊による刷新に参加していなかったら、私には、このような霊的熱意と信仰の高まり、秋田の奇跡についての明確な確信は、生まれていなかったかもしれません。秋田の聖母の出来事について告知しなければならない、という明確な確信を持つことができたのは、聖霊による刷新に参加したおかげです。ですから、聖霊による刷新について知らない方も、ぜひ、私の分かち合いをお読み下さい。今回は少し長い記事になりましたが、心を込めて書きましたので、ぜひ、最後までお付き合いください。よろしくお願いいたします。

さて、では初めに、聖霊による刷新(Catholic Charismatic Renewal)について御存じない方のために、説明をさせていただきたいと思います。

聖霊による刷新は、カトリック教会の大きな刷新と改革の起源となった第二バチカン公会議(1962年~1965年)の直後であった1967年に、アメリカのペンシルバニア州・ピッツバーグにあるカトリック系のデュケイン大学(Duquesne University)において、後に「デュケインの週末」と呼ばれることになる学生週末黙想会で起きた、新しい聖霊の恵みの注ぎと現われを起源としています。

二人の教授と数人の学生たちが、プロテスタントのカリスマ派と交流し、そこにおいて起きている「聖霊による洗礼(聖霊の満たし)」という聖霊の注ぎのしるしについて深く黙想していました。そしてデュケイン大学での週末黙想会において、自分たちにも恵みのしるしが現われるようにと強く懇願していたのです。すると突然、数人の学生たちの上に聖霊の驚くべき注ぎが訪れました。彼らは神の臨在に圧倒され、異言(初代教会に見られた不思議な霊的言葉)で賛美し、神の愛と歓喜に満たされました。この”驚くべき神の恵みの現われ”は、アメリカにおけるカトリック聖霊による刷新の始まりとなり、その後、この出来事から触発されたカリスマ的賛美集会がアメリカ各地で始まり、瞬く間に世界中に伝えられ、同時多発的にカリスマ的賛美集会が世界各地で起こり、この恵みの注ぎの現われは「聖霊の満たし」の伝達を通して、世界中のカトリック教徒に分配されていったのです。

聖霊による刷新、直訳すればカトリック・カリスマ刷新の集会を特徴付けるものは、喜びと活力に満ちた現代的な新しい様式の賛美と礼拝の集会と、参加者たちの中に現われる霊の賜物への開かれた心、生きている神の愛と恵みの臨在に触れる「聖霊の満たし」の体験です。この集会は全ての人に開かれており、誰でも参加することができます。

聖霊による刷新は、神の愛をあふれる恵みの中で体験する道です。キリスト教は本来、その始まりから、驚くべき神の恵みの体験の道であり、その信仰体験と信仰表現はとてもエモーショナルなものであったことを、聖霊による刷新は神の臨在を見失った現代に知らせ、目を開かせ、再興させていきました。聖霊の新しい到来によって、そしてその多様な働きによって、教会は真に刷新されていきました。

また、このアメリカから始まった新しい聖霊降臨の”恵みの波”は、私たちにカリスマ(神の恵みの賜物)についての根源的であり、かつ現在にふさわしい新しい洞察を与えてくれました。それは、主なる神の恵みのカリスマの働きとは、被造物である人間の予測や常識や経験を超えて、驚きと共に自由に訪れて働き、あわれみ深き主の臨在と介入を知らせ、その”恵みの業”によって、創造主・三位一体の愛と主権を示すということについてです。

世の影響を様々に受けた長い歴史と位階組織と修道霊性の中で硬直し、ある意味で中世の負の遺産も引きずっていたカトリック教会に、聖霊の新しい自由な息吹きが注がれました。そして全世界のカトリック教徒は、神の自由な選びの中ですべての人に注がれる聖霊の恵みの賜物に目が開かされていったのです。この聖霊による刷新の新しい到来によって、聖霊の賜物の注ぎは、聖人たちや一部の特別な神秘家たちだけに固有なものではなく、すべてのクリスチャンに開かれている神の恵みであり、共におられる神の臨在のしるしであることが示されました。それは、聖霊降臨によって始まった初代教会に働いていた「信仰と恵みの時代」への回帰でもあったのです。

「デュケインの週末」に参加し、当時学生として聖霊の注ぎを体験したパティ・マンスフィールド(Patti Mansfield )夫人は、聖霊による刷新の初まりについて、こう語っています。

「それは、『愛の物語』です。ごく普通の人々の祈りに対する神のいつくしみあふれる驚くべき応答という、愛の物語なのです。」

パティ・マンスフィールド夫人が聖霊による刷新に働く恵みついて語った証しを、下記リンクから読むことができます。

http://www.sol.dti.ne.jp/~hsro/shiryo/ikerumizu/84.pdf 
 (聖霊による刷新全国委員会発行「生ける水」2007年春季号・PDF)

聖霊による刷新は教会運動に分類されますが、組織体ではありません。集会を司るコアリーダーたちは存在しますが、集会に参加するための入会の登録や会員名簿はありませんし、全世界の動きと情報を連絡して調整し、リーダーたちを養成する事務局(ICCRS)がローマに置かれていますが、全世界における集会の参加者たちを会則などで規制したりはしません。

その働きは、一致の源であり、またもう一つの側面として多様な実りと働きを生む方である聖霊の御業に、全て委ねられています。ですから、全世界に伝えられた「聖霊の満たし」によって新たに注がれ解放された聖霊のカリスマの業を通して、信仰においてひとつに集められながらも、実に多彩で多様な働きが世界中で現われています。

「体は一つ、霊は一つです。それは、あなた方が、ひとつの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エフェソの信徒への手紙4章4-7節)

現在までに、全世界の220カ国以上で、全世界のカトリック教徒の十分の一である一億2千万人以上が、この聖霊による刷新の集会に参加し、聖霊の満たしを受けています。

全世界で多様な働きが起きている、と書きましたが、私がひとつ視点を変えて指摘したいことは、この聖霊による刷新の初まりが、アメリカで起きたことについてです。私は、神がカトリック聖霊による刷新をアメリカで初められたことの中に、大切なしるしが現われていると感じます。それは、アメリカという国家に与えられている神の賜物と無関係ではないと感じるからです。

アメリカは移民によって築かれた新しい近代自由民主主義国家ですが、同時に、その土台はキリスト教国家として築かれた国でもあります。この民主主義国家の国民に現われている国民性は、多様、自由、開拓精神、心の開放性、リーダーシップ、歴史に縛られない平等性など様々にあります。アメリカに留学した人々の多くが、その国民性である心の開放と自由、多様性の受容、リーダーシップなどの影響を強く受けて帰ってくることにも示されていると思います。

この歴史に縛られていない新しい国アメリカで、神はカトリック聖霊による刷新を始められました。そこに、歴史を超えてキリスト教の原点を示しながら、世俗化して生ける神の臨在を排斥する近代社会に立ち向かい、文化内に受肉し、その中で神の愛と臨在、救いを伝えようとされる神の強い意志が働いておられると思います。そして、このアメリカで始められた驚くべき恵みの働きの全世界への伝達によって、神は、アメリカという新しい国家に与えられた良き賜物をも、同時に分配されようとしておられると思うのです。

確かにアメリカ社会も光と闇、善と悪の激しい戦いの中に置かれていますし、世界には、むしろアメリカの「悪と闇の結んだ実」が分配されているようにも見えます。しかし、神から与えられた祝福と良き賜物は確かに存在しており、見い出され、尊重され、世界に伝達されねばなりません。聖霊による刷新は、ひとつの側面として、歴史に縛られていない、超教派の国であるアメリカに与えられた恵みの現われであり、聖霊の業の新しい注ぎと解放のために選ばれた国アメリカからの、恵みの贈り物でもあると思うのです。

そして、この全世界のカトリック教徒への贈り物は、その新しい、カリスマ(賜物)の解放の業ゆえに、それぞれの国に働くカリスマを開花させ、それぞれの国と地域に適した多様な姿に変容し、信仰を強め、受容されています。

この見解は、アメリカ嫌いの方々や陰謀史観を抱いている方々には受け入れ難いかもしれません。しかし、人類の歴史を導く創造主は、確かに、それぞれの国家にも多様で固有な良き賜物を与えておられると思います。それは当然、日本にも当てはまり、日本固有の、世界に分かち合われるべき、素晴らしい良き賜物も存在すると思います。

そして、人類の歴史の旅路において、それぞれの国家に与えられた恵みの賜物はお互いに交流し、分かち合われていき、その結果として、世界に遍在する「キリストの霊の賜物」との新しい出会いも実現してきたのではないでしょうか。そしてこれからも、キリストの霊の賜物との新しい出会いによって、それぞれの地域にふさわしい霊的刷新が行われ、聖霊の力強いリーダーシップのもと、神の望む、より良い人類の一致と、新しい文化の形成と、歴史の完成が実現していくのではないでしょうか。これは、聖霊が導く人類の歴史の神秘であると言えます。

もっとわかりやすく言えば、2000年に及ぶキリストの教会の歴史も、よく洞察してみるなら、賜物の開花と交流の歴史であったことが理解できると思います。古代から中世、そして近代にかけての修道会の発展や宣教に伴う文化交流の密接な結び付きはその明確なしるしであり、人類の歴史を導く創造主の存在を決定的に示しています。その賜物の交流は、このグローバル時代を迎えて、さらに加速しています。まさに、それは、この「終わりの時代」(ペトロの手紙一・1章20節)に、人類をキリストのもとにひとつに呼び集めるお方であり、ひとつでありながら多様な働きをされるお方、聖霊の御業と言えるのではないでしょうか。

このような多様な賜物の交流と受容は、本来日本人にはとても理解しやすいことではないでしょうか。なぜなら、島国日本は、歴史の中のある特定の時期(キリシタン弾圧に始まる鎖国の時期や、軍部による独善的な国家主義が台頭した昭和の一時期)を除いては、実に、文化経済分野において、海外からもたらされる豊かな賜物に心を開き、それを受容し、そこから学び、それによって文化が刷新されて変容し、国家が強められ、成長してきたのですから。それは、これからも大切な日本人の国民性と特質であろうと思います。

ここで、ドイツにおいて、1981年にドイツ司教団の認可を得て、聖霊による教区刷新のためのコーディネートチームが編纂したレポートの序文を紹介したいと思います。ここには、世界における聖霊による刷新の恵みの働きが的確に表現されています。

「この聖霊による目覚めは、まずアメリカ合衆国で始まり、全世界のあらゆる教会に広がっています。多くの場合は、それぞれの歴史的条件や教会の諸条件に適した形で、自主的に新しく始まっています。

聖霊による刷新によって、神の力を新しい方法で体験し、イエス・キリストに以前よりも深く出会っている、と多くの信者たちが同じように証言しています。この人々は、神に個人的に受け入れられ、愛されていることを体験的に知っています。そして、この人々の存在の中心には、神に対する深い愛、礼拝、感謝、賛美が湧き上っています。聖書の御言葉が新しく照らされ、この人々はもっと意志的に御言葉に従って生活しようと努めています。日常生活の中で神の導きをはっきりと認識するようになり、他の人々の喜びや苦しみにもっと心が開かれます。この人々の人間関係は変化し、教会に対する意識も新しくなり、度々、社会活動に対しても内面から新しい意欲が生まれます。

あらゆる年齢層の信徒たちが、既婚者も未婚者も、一般信徒も、修道者や司祭も、神の御言葉を聞き、共に祈り、霊的体験を分かち合うために集まっています。その時、聖霊の多様なカリスマ(賜物)が新しく生かされます。その中には、初代教会では生活の一部であったのに、歴史の流れの中で忘れられてしまった聖霊の賜物(異言、預言、癒しの賜物など)も含まれています。

新しく与えられているこの霊的体験は、それぞれの国、教会および共同体で様々な異なった特徴を現しています。「カリスマ」とは「恵み、賜物」という意味で、教会と信徒たちの刷新が、人間的な努力の成果であるばかりでなく、まず始めに、神から与えられた贈り物であることを示しています。 」
                     (「神の霊による教会刷新」序文より)

聖霊による刷新の恵みの働きは、瞬く間に世界中に広がり、全世界のカトリック教会を内部から刷新し、バチカンの中枢にも影響を与えていきました。第二バチカン公会議に参加され、大きな影響を与えたスーネンス枢機卿(Cardinal Suenens )などが、初期の聖霊による刷新の理解者、擁護者として、その成長と発展を支えました。現在では、ローマ教皇の罪の告白を聴く聴罪司祭であり、バチカンの説教師でもあるカプチン・フランシスコ会(OFM Cap)のイタリア人司祭、ラニエロ・カンタラメッサ(Raniero Cantalamessa)神父などが、著名な聖霊による刷新の指導者、擁護者として知られ、活躍されています。

また、前回のブログ記事で書いたメジュゴリエの聖母のご出現と聖霊による刷新の関わりについて、ひとつ指摘したいことがあります。メジュゴリエの聖母のご出現の地として選ばれた聖ヤコブ教会の指導は、歴史的にフランシスコ会(OFM)の司祭たちが担当していましたが、1981年の最初のご出現当時、その中の数人は、聖霊による刷新に参加する司祭たちでした。当時の主任司祭のフランシスコ会士、ヨゾ・ゾブコ(Jozo Zovko)神父は、聖霊による刷新の癒しのミニストリーを行う、カリスマ的な司祭であり、彼自身、聖母のお姿を見る恵みを受けました。彼は当時の共産政権に投獄されても、幻視者の青年たちを守りました。

このメジュゴリエの聖ヤコブ教会を選んで聖母がご出現されてきたことは、聖母が聖霊による刷新を祝福され、承認されていることの明確なしるしだと思います。そして、単純と清貧の喜びを生き、悔い改めと和解を説く、アシジの聖フランシスコの弟子たちへの天からの励ましでもあると思うのです。

メジュゴリエにおいて、聖母は聖霊による刷新を祝福され、承認されました。このことは、もっと強調されて伝えられても良いことだと思います。

さて、日本における聖霊による刷新の歴史は、1972年、アメリカの宣教師たちによって伝えられ、東京・渋谷区のカトリック初台教会において、最初の集会がもたれました。その後、四ツ谷の上智大学などでも集会がもたれるようになり、すぐに全国に伝わっていきました。その表現と体験のもつ新しさは、伝統の様式を愛する司祭や信徒たちに多くのつまづきも生みましたが、全世界で実を結んでいる聖霊による刷新のもたらす神の愛の体験とカリスマの解放は、疑うことなき真実のものとして徐々に受け入れられていきました。

日本における初期からのリーダーには、いずれもアメリカ人宣教師であるフランシス・マシー神父(イエズス会・上智大学名誉教授)や、ベルナルディン・シュナイダー神父(フランシスコ会・聖書研究所所長)などがおられ、信徒リーダーには中村友太郎氏(上智大学名誉教授)などがおられました。また、多くの外国人宣教師たちと一部の日本人司祭、信徒リーダーたちが聖霊による刷新に参加され、その恵みを全国各地に伝えられました。先日の東日本大震災の際に亡くなられたことが全国的に一般紙でも報道された、カナダ出身の宣教師で仙台教区の故アンドレ・ラシャペル神父(ケベック外国宣教会)も、東北地方における聖霊による刷新の先駆的なリーダーでした。

残念ながら、日本では聖職者たちや一部信徒たちの根強い偏見もあり、各教区全体に活動が広く受け入れられるようなことはありませんでしたが、それでも、全国各地で継続的に集会が持たれていきました。そして、2000年の大聖年の記念すべき全国大会には、アメリカのカリスマ的説教者、トム・ディロレンゾ神父(Fr Tom Dilorenzo)を迎え、東京に1000人以上の人々が集まり、故白柳誠一枢機卿や、故伊藤庄治郎司教を引き継いで秋田の聖母の出来事に関わられた新潟教区長でありフランシスコ会士でもあった、故佐藤敬一司教も参加されました。講師であったトム神父が壇上から繰り返し叫び、呼びかけたメッセージ「心を開きなさい!(Open your heart!)」は、今も本当に私の心に残り、刻まれています。本当に私にとっても、2000年の大会は、素晴らしい思い出となっています。

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( Copyright (C) Catholic Charismatic Renewal Center for Chicago )

さて、話を私自身のことに移し、私の体験の証しをしたいと思います。
私と聖霊による刷新の集会との出会いは、北海道のトラピスト修道院から自宅に帰ってきた1998年のことです。

私はカトリック修道会・フランシスコ会に入会し、諸事情によって退会した後、1995年に1年間秋田の聖体奉仕会で過ごし、その後1996年に函館近郊の厳律シトー会・トラピスト大修道院に入会しました。その経緯と体験の分かち合いについては、私のブログ記事「トラピスト修道院」に書きましたので、そちらをご覧ください。

私はトラピストで1年半過ごし、1998年に家庭の諸事情でトラピスト修道院から自宅に帰ってきて、一般の社会生活に戻らなければならなくなり、どのようにやっていこうかと悩んでいました。仕事は何とか見つけたのですが、今まで培ってきた霊的生活を放棄することは私には非常につらいことだったのです。トラピストの賛美と礼拝、静寂と潜心、学問と労働の喜びの日々は、あまりにも忘れがたく、私は社会不適応を起こしそうでした。しかし、その一方で、私が学んできたことが無駄であることはあり得ず、社会で生かせないはずはない、という確信のようなものもありました。

そしてこの1998年は、2000年の大聖年に向けた準備のために、教皇ヨハネ・パウロ2世が定められた「聖霊の年」でもありました。私はこの年、毎日祈りの中で、「聖霊よ、あなたがどのような方なのか、私にもっと教えてください。」と願っていました。

そんな時、以前三軒茶屋教会の信徒だった頃、在世フランシスコ会の活動で知り合ったご夫人と、東京・四ツ谷の上智大学の隣にある聖イグナチオ教会でばったりと再会し、私はトラピストから帰ってきたことを告げました。すると、そのご夫人は「あなたに会わせたい人がいる!」と言って、聖霊による刷新のリーダーのひとりであった大田逸子さんのところへと私を連れて行ってくれたのです。それが、聖霊による刷新に参加するきっかけでした。

私はフランシスコ会にいた時から、聖霊による刷新に関心がありました。なぜなら、修練者として1年間滞在した埼玉県にあるフランシスコ会(OFM)北浦和修道院の当時の修道院長はドイツ人のウルバン・サワビエ神父であり、彼は過去において北海道に聖霊による刷新をもたらした宣教師だったのです。彼から聖霊による刷新については聞いていました。しかし、集会に参加する機会はなかったのです。また、シュナイダー神父を始めとする関東の数人のフランシスコ会士が聖霊による刷新に参加していることも知っていました。

私は、かねてから興味があった聖霊による刷新に触れることができると思い、さっそく日曜日の夜、上智大学で行われていた聖霊による刷新四ッ谷祈りの集いの集会に参加してみました。そして、その兄弟的で暖かな心開かれた雰囲気と、現代音楽のバンドを用いた活力ある賛美の集会に驚き、異言の賛美を初めて体験し、その“現代的な”荘厳さに心打たれました。集会に満ちあふれる賛美の喜びは、表現と様式は違えども、トラピストの賛美の喜びと共通している、と感じました。このように感じたことは理解されないかもしれませんが、確かに私の実感でした。

私は、経済活動に参加しながら社会生活をし、社会不適応を回避し、そして霊的生活を維持していくためには、聖霊による刷新に参加することが必要だ、と強く感じました。自分が“聖霊によって刷新”されることが必要だと感じたのです。それは、聖霊が与えてくださった直感であったと思います。

そして、さっそく毎週参加してみることにしました。すると、すぐに「関東大会があるよ」と言われました。
聖霊による刷新の大会がどんなものか想像がつきませんでしたが、ちょうど「聖霊の年」でもあり、記念となる大会だからぜひ参加してみてください、と言われ、初めて会場となっている東京のホテル浦島に行き、宿泊して参加してみました。

1998年の聖霊による刷新関東大会は、記憶では癒しの賜物を持つアメリカ在住のアイルランド人修道女、シスター・ブリージ・マッケナ(Sr. Briege McKenna)が来られた大会でした。私は初めて参加したこの大会で、決定的に不思議な体験をしました。それは、大会の二日目に、ミサが行われたときのことです。

聖霊による刷新の大集会の躍動的で心の解放された力強い賛美と礼拝、霊の力に満ちたミサにとても驚いたのですが、聖体拝領の時間となり、私は会衆席から拝領のための列に並ぼうと立ち上がりました。祭壇の前では、イエズス会のフランシス・マシー神父がご聖体を配っていました。私は、マシー神父の前まで並んでいる列に加わろうとした時、とても不思議な感覚に襲われました。

胸の内が、とても暖かくなったのです。ちょうど、心臓のあるあたりです。そして、胸の内、すなわち私の心から、あたたかい水があふれでるような感覚を感じました。私の胸の内側から、あたたかい水が湧き出てくるような感覚をしばらくの間、感じたのです。何か、心から温泉が湧き出るような感じでした。

この感覚は聖体拝領の時まで続きました。マシー神父からご聖体を受け取り、それを拝領すると、この不思議な感覚はスーッと消えていきました。

私はこのような感覚を、洗礼を受けてから初めて体験しましたが、聖霊による刷新ではこのような不思議なことが起き、感覚的しるしも現れることがあると聞いていたので、「これは、そういう体験かもしれないな」と、比較的冷静に考えていました。

そして、このことを四ツ谷のメンバーのひとりに打ち明けると、「それは、主の恵みです!」と言って大喜びされました。私は、修道生活における学びと体験から、神秘体験というものは隠すものであると考えていましたから、「恵みの体験の証し」を促す聖霊による刷新の考え方に驚きました。

今振り返ると、あの時、主は、聖霊による刷新に参加し始めた私を祝福し、そして強めるために、ご聖体のうちにまことにおられるイエスの御心から流れ出る「生ける水」を体験させてくださったのではないか、と思います。

私はイエスの御言葉、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 (ヨハネによる福音書・7章38節)と、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネによる福音書・4章14節)を思い出していました。この体験は、このイエスご自身の御言葉と関係がある、と強く感じました。

私はこの体験をしてから、聖霊による刷新にしっかりと参加して学んでみようと考え始め、その結果として、4年間ほぼ毎週通うこととなりました。

これが、私が参加した1998年の大会の思い出です。失礼ながら、シスターブリージが話されたことなどは忘れてしまいましたが、この不思議な体験は忘れることができません。今も、聖霊による刷新に働く恵みの業と力を信じる根拠のひとつとなっています。

その後、私は上智大学の集会で聖霊による刷新セミナーに参加し、皆の祈りの中で「聖霊の満たし」を受けました。
聖霊の満たしを受けた直後、私には何も感覚的しるしは与えられず、異言も口から出ることはありませんでした。私は、心の中で「なぜ現代に異言が必要なのだろうか?この賜物の意味が理解できない。私は、この賜物を特別に欲しいとは思わない。」と思っていました。

私は当時まだ、トラピスト修道院で沈黙の証しを学んできた影響を強く受けており、ある意味で、言葉による証しの賜物に向けて解放されていなかったのかもしれません。私の口は異言の賜物には閉ざされたままでした。集いの信徒リーダー・太田逸子女史は、「あなたは口を開かねばなりません!あなたの異言の賜物は開かれるべきです!」と確信をもって言われ、私に異言の賜物が与えられるようにと、特別に皆で何度も祈ってくださいました。

その結果、程なくして私は異言の賜物を受けました。それは、郵便物がポストに届くように、前触れもなく、突然、すみやかに訪れました。私はトラピストで、礼拝の時間以外は口を閉ざす生活に慣れていましたので、まず、自分の意志で、霊の促しのままに自由に口を開くことに同意することが必要でした。そして、ある意味で「練習」が必要でした。最初は片言の短い言葉で始まりましたが、徐々に変化し、自由に異言で大胆な賛美ができるようになっていきました。それは私にとって、「舌のもつれがほどける」(マルコによる福音書 7章35節)ような体験でした。

そして私は、異言での賛美を重ねていくうちに、この賜物が、心と霊と言葉、そして種々の霊の賜物の解放と密接に結ばれていることを感じ、理解できるようになりました。

異言は、心と霊と言葉の、神と世界に向けられた解放の業です。この解放の業によって、信仰の証しのための力強い導きと助けが与えられます。異言は、近代社会の新しい罪への隷属の重荷の中で押し潰されそうなクリスチャンたちに与えられた、聖霊による新しい解放の賜物であり、聖霊に心を開き、その導きに全てを委ねるため、そして聖霊による自由と喜びを生き、聖霊によって語り、信仰を証しするために現代に再び与えられた、神の不思議な御業です。クリスチャンは異言で賛美することによって、霊に心を開き、霊に全てをゆだねるように養成されていき、信仰の勝利へと導かれます。

私は、聖霊による刷新の集会に参加することによって、初代教会の聖霊降臨から始まって、今も続いている神の力強い恵みの賜物の働きに目が開かされていきました。新約聖書に記録された神の不思議な業と奇跡としるしのひとつひとつが、現実のものであることをはっきりと理解できるようになりました。それは、実にエキサイティングな体験でした。

そして私は、そのような神の恵みの働きのひとつとして、秋田の奇跡の出来事を思い巡らすようになっていったのです。

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さて、私は聖霊による刷新に参加しながら、いつもひとつのことを思い巡らしていました。それは、秋田の聖体奉仕会に滞在し、秋田の出来事に触れた体験とは何だったのか?ということについてです。

私は聖体奉仕会に20才の頃に初めて巡礼に行き、それ以来、聖体奉仕会の人々とは顔見知りでしたし、何度も巡礼に行って、マリア様の前で祈ってきました。しかし、フランシスコ会に入会し、そして退会した後、聖体奉仕会に奉仕のために滞在することになった時、今までとは違う覚悟のようなものが生まれました。それは、「秋田の出来事は、私の人生の中で、きっと、とても重要な部分になる。そして、秋田の出来事から逃げることはできない。」という確信でした。ですから、トラピストから帰ってきて、社会に戻り、聖霊による刷新に参加してからも、秋田のことがいつも気になっていました。

初代教会に働いていた恵みの時代への回帰とも言える聖霊による刷新に参加して気づかされたことのひとつは、秋田の出来事も、聖書に書かれた初代教会に起きていった神の恵みの働きと同じことだ、ということでした。

つまり、ヨセフやマリアや羊飼いたち、そしてペトロに天使が現われて導いたように笹川姉妹にも天使が現われて導き、パウロが主の威光に打たれたように、笹川姉妹はご聖体の威光に圧倒され、初代教会の使徒たちと信徒たちに預言の賜物が注いだように、笹川姉妹にも預言の賜物が注いだということ、使徒たちや初期の信徒たちが夢や幻に導かれたように、笹川姉妹にも夢や幻が与えられ、そしてイエスと使徒たちによって病の癒しの恵みが起きていったように、笹川姉妹や韓国の夫人に癒しの恵みが注がれたのだということについてです。

初代教会に起きていった不思議と奇跡としるしを再現するかのように、秋田で不思議と奇跡としるしが現われていきました。そして、初代教会の中心に母マリアがおられたように、秋田の出来事の中心にもマリアがおられました。

しかし、聖霊による刷新は、生きておられる主イエスを宣言し、心開かれた喜びに満ちた集会が特徴であり、「人類の罪と大天罰の危機に泣く涙のマリア」とは何の関係もなさそうな感じをもたれる方もいらっしゃるでしょう。実際、聖霊による刷新の参加者の方々の中には、秋田の出来事を理解できず、受け入れられない方もいらっしゃいました。

聖霊による刷新がもたらすものは多様で種々ありますが、顕著に現れる恵みのしるしのひとつは、罪の痛悔と神への回心です。聖霊は「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 」(ヨハネによる福音書 16章8節)御方です。
聖霊に満たされ、照らされた者は、自分が罪人であることを知ります。そして悔い改め、イエスを自分の救い主として受け入れることで、主の愛とゆるし、救いの恵みの臨在の中に自分が置かれていることを知り、喜びに満たされるのです。

ですから、聖霊は世の誤りと罪を大胆に指摘される御方です。それは、人を恐れさせ、苦しめるためではなく、裁き主である神の公平さと純粋さゆえに、全ての人を救いに導くためです。秋田の出来事では、世の誤りと罪が、その預言と奇跡の出来事を通して、大胆に指摘されました。

聖霊の最愛の花嫁であるマリア(ルカによる福音書 1章35節参照)が、その警告のために天から遣わされました。聖霊の花嫁である汚れなきおとめマリアは、誤解を恐れずに言えば、聖霊と一体と言って良いほどに、聖霊に一致しておられます。聖霊降臨の中心にマリアがおられたことは、主の御摂理として当然のことでした。ですから、聖霊の満たしの比類なき充満の中にあるマリアの警告は、聖霊の警告でもあり、マリアの涙は、聖霊の涙とも言えるのではないでしょうか。マリアを私たちの信仰から排除しようとすれば、聖霊はとても悲しまれます。マリアを冒涜するものたちは、聖霊を冒涜することに等しいことを気づかなければいけません。

聖霊による刷新がプロテスタントの中で働き、そしてカトリックにその霊の働きが分かち合われて伝えられていった時、カトリック聖霊による刷新は、マリアと共にあることを示しました。これは聖霊が望まれた“建設的な修正”だと思います。

「聖霊降臨のときにマリアが高間におられたように、私たちが高間に戻るときには、いつでもマリアは私たちと共におられます。」                                                         (パティ・マンスフィールド夫人)

聖霊による刷新は、そのカリスマの解放の業ゆえに、ローマ・カトリックに働く豊かな賜物を強め、再興し、開花させていきました。七つの秘跡はより強調され、世界に示されました。それらは、世界中のキリストの諸教会が、お互いの賜物の交流の中で、キリストにおいてより良い一致の回復へと導かれるためです。まさに、それは分裂した世界をキリストのうちに一つに呼び集める御方、聖霊の御業です。

秋田で聖母は、「もし人類が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。その時、御父は大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。」(秋田の聖母 第三のお告げ 参照)と訴えられました。御父の怒りが頂点に達し、ノアの洪水を超えるような大天罰が起きる時とは、どのような時でしょうか。それは、人間の「堕落ゆえに、不法が地に満ちている」(創世記6章13節参照)時だと言えます。このように、秋田で聖母は聖霊に導かれて「世の誤りを明らかに」しています。つまり、聖母の警告を素直に受けとめるなら、私たちが生きる現代社会は、創造主である御父の怒りを頂点にしてしまうほどに、神に忘恩と侮辱を返し、堕落してしまっていると言えるのではないでしょうか。

これは、人間の神の存在への願望からはかけ離れたことですし、マスメディアの幻想に踊らされながら現代の法治社会を生きている私たちには見えずらいことかもしれません。私たちは、「誰にも迷惑をかけず、法を守って、協調して生きている。」と感じています。しかし、神は表面ではなく、人間の心の隠された真実と、霊魂の救済を真剣に考えなくなり、神から離れてしまった社会の真実を見ておられます。そのことを忘れてはいけないと思います。

父と子と聖霊、すなわち三位一体の神は創造主としての限りない愛に満ちておられますが、また、創造主としての神秘的な役割において、裁き主でもあられます。そして「裁きは一切御子キリストに任せておられる」(ヨハネによる福音書5章22節参照)のです。なぜ、神が裁き主であられるのか、それは人間の理解を遠く超えた神秘ですが、神が真理そのものであり、その真理である神ゆえに裁きが現われるということを、カトリック教会は伝えています。

「神はそのすべての業の中で、好意といつくしみと恵みと愛とを示されますが、また、信頼性、不変性、忠実さ、真理をも表されます。神は真理です。」「神の真理は被造界全体の秩序を保ち、世界を治める知恵です。」(カトリック教会のカテキズム 214, 215)

キリスト教の福音宣教は、何よりも愛である神、そして御子・救い主イエスを伝えます。聖霊による刷新は、神が愛であり、近づくべき親しい御方であり、「アッバ(お父さん)」と呼ぶべき慈しみに満ちた御方であることを、現代に生きる私たちに向かって強調します。聖書は語っています。

「神は愛です。愛に留まる人は、神のうちに留まり、神もその人のうちに留まってくださいます。こうして、愛が私たちのうちに全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世で私たちもイエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙一・4章16節-19節)

しかし一方で、聖書の中のイエスの福音は、もうひとつの側面として、父と子と聖霊である創造主が、人間が地上の人生を終えたとき出会うべき審判者であり、人類の歴史の完成する世の終わりの審判者でもあられる、正義に満ちた方であることも明確に伝えています。

ここに、イエスの福音の核心であり、福音宣教の始まりの言葉である「悔い改めよ、天の国は近づいた。」(マタイによる福音書・4章17節)という言葉は呼応しています。ですから、人間の願望だけで、神は愛だから、悔い改めなくても人生の最後に全てを赦してくれる、と考えるのは行き過ぎた解釈ですし、このような解釈は人間の願望による自己解釈と、様々な新思想との融合による混乱と、相対主義の傲慢が生み出していると言えます。

繰り返しますが、神は創造主として限りない愛を人間に注いでくださいますが、原罪の結果として罪人である人間の「悔い改め」を求められます。悔い改めて、神のひとり子・救い主イエスへの信仰による救済に入るようにと絶えまなく呼びかけておられます。なぜなら、イエス・キリストこそ、人類に与えられた神の至上の愛の果実であり、救いの計画の要石だからです。

秋田の出来事では、この私たちの創造主である神の、愛と正義の両方の側面が示され、強調されたと言えます。神は完全であり、「片手落ち」な方ではありません。神の正義と愛が結ばれているように、悔い改めと救いは結ばれています。

ですから、ここで明確に言うなら、もし秋田の警告の成就を回避できず、神の正義の顕現としての大天罰を私たちが見ることになったなら、それはまさに、「悔い改めの時」の決定的なしるしであり、創造主である御父の真の愛と正義が、人間社会を堕落の淵から救いへと導くために、究極の選択として決断されたしるしなのだということを、しっかりと受け止めていく必要があると思います。そのような神の決定的なしるしに私たちが出会うなら、それはまさに、神の御前にへりくだる決定的な時なのだということを、心に留めていくべきです。

ですから、地上において人類社会と教会に起きていく全ての出来事は、神がその実現を許されたことであり、人間の理解をはるかに超えた摂理の働きによって、神の神秘的な救いのご計画と、キリストの勝利の完全な成就への道の中に置かれていることを、ゆるぎない信仰と信頼をもって見つめていくことが大切だと思います。

さて、聖母は「これ以上罪が続くなら、罪の赦しは無くなるでしょう。」と笹川姉妹に預言され、訴えられました。(秋田の聖母 第三のお告げ 参照)主イエスは「聖霊を冒涜する者は赦されない。 」(ルカによる福音書 12章10節他)と言われたことが福音書に書き記されています。つまり、マリアが訴える「罪の赦しの喪失」とは、「聖霊を冒涜する罪」と、深く関わりがあると言えるのではないでしょうか。

現代世界の「聖霊を冒涜する罪」すなわち「赦されない罪」とは、どのようなものでしょうか。そのひとつは、全人類をキリストによる救いと、神との和解と一致の回復へと呼び集めようとされる聖霊の招きを拒絶し、ある意味で確信犯的に冒涜することではないかと私は思います。現代において聖霊の招きを冒涜する者たちは、無知ゆえにではなく、世のあらゆる知識ゆえの傲慢によって、それを行っているからです。聖霊を冒涜する者たちは、神との和解を拒絶し、再び自分たちのバベルの塔(創世記11章参照)を築いているのです。ですから、バベルの塔の出来事の後、大天罰が起きたように、現代の「聖霊を冒涜する罪」にも、秋田において大天罰の警告が与えられているのです。

また、秋田の預言「これ以上、罪が続くなら、もはや罪の赦しはなくなるでしょう。」は、教会の堕落と分裂に関する警告の文脈の中の最後で語られています。(第三のお告げ 参照)つまり、この「罪の赦しの喪失」は、教会の堕落と分裂にも深い関わりがあると言えます。したがって、教会の中にも「聖霊を冒涜する罪」が広がっているということが言えると思います。

教会の中に蔓延する「聖霊を冒涜する罪」とは、どのようなものでしょうか。それは、やはりキリストによる救いの充満で満たそうとされている聖霊の招きを冒涜することではないでしょうか。すなわち、神の愛の贈り物であるキリストによる救いを何らかの形で冒涜していくことです。

私が体験的に判断できることは、教会の中の「隠れた、秘められた罪の連鎖」と関わりがあるということです。つまり、表面上はキリストの救いに与っているはずのクリスチャンの中に、神への偽りと傲慢、十戒に背くような罪が入り込み、恒常化しているという現象です。これは、私が体験的に知る日本に関して言えば、カトリック教会の閉鎖性と隠蔽体質も影響を与えていると思います。特に私が指摘したいのは、偶像礼拝と偽証の罪です。神以外のもの、すなわち世の価値観とそれに従う人間を礼拝して聞き従い、また、神と人に対する偽証が恒常的に行われています。

例えて言うなら、それは大相撲の八百長です。罪と堕落が隠れて入り込み、恒常化し、上長をはじめ皆が知っていることでありながら、沈黙が支配して黙認されているという現象です。

これらの、神への誠実さと教会に対する忠実さを欠いた隠れた罪の連鎖によって、信徒だけではなく、聖職者、修道者、すなわち神に奉献された人々も堕落し、教会は内部で分裂を起こしています。これは、隠れた偶像崇拝による「獣の刻印の時代」(ヨハネの黙示録 13章、14章他参照)の成就であると、私は思います。

私が体験的に判断できることは、秋田の聖母の警告は、現代社会と教会の明確な、あるいは隠された真実に基づいている、ということです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。 」(ルカによる福音書 12章2節)という聖書の真理は、ここでも働いています。

ですから、私たちは、秋田で涙し、「世の誤りを明らかに」し、警告を与えてくれた聖霊の最愛の花嫁、マリアに感謝しなければいけません。「なぜ、マリアが泣いているのかわからない。天国で救われているのに。」などと、間違っても言ってはなりません。天国で喜びに満たされている聖霊の花嫁が涙するほどに、人類社会は聖霊を冒涜しているのです。

聖霊の最愛の花嫁マリアに感謝し、聖霊に全てを委ね、導かれて、聖霊を冒涜する罪をかなぐり捨てて悔い改め、そして、イエスを主として、救い主として受け入れるならば、マリアの涙は、喜びの涙に変わるでしょう。なぜなら、イエスの御母であり、全ての民の御母マリアは、十字架の犠牲と贖いの実りである、御子キリストによる人類の救いの完成を心から望み、絶えまなく願っておられるのですから。

そして私たちは、刷新され回復された信仰を携え、喜びにあふれて、こう叫ぶのです。

「イエスは、私の主です!」


なぜなら、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」からです。
                           (コリントの信徒への手紙一 12章3節)


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