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2017年7月 7日 (金)

総論① 疑い-1 ~秋田のしるしが置かれた国で~

「総論① 疑い-1 ~秋田のしるしが置かれた国で~」

私が高校2年生の時にカトリック高円寺教会で幸田和夫神父のもとで勉強し、1985年のクリスマス、高校3年の時に森一弘司教から洗礼と堅信を受けてから30年が過ぎ、振り返ってみて、その間に体験してきた不可解で奇妙な出来事の数々を思い起こせば、一見、それぞれの不愉快な出来事は偶発的に起きていったように見せかけられているが、手繰り寄せて集めてみると、とても偶然とは思えない水面下の関連性を感じざるを得ない。

まず、見聞きしたことを除いて、私が洗礼を受けてから直接体験したことを列挙するだけでも、とても偶然の連鎖とは思えない、教会内の不可解な妨げと沈黙を見て取れる。年代順に列挙してみよう。

①高円寺教会での洗礼を受けるための勉強は、司祭になりたての助任であった幸田和夫神父(現・東京補佐司教)によって行われたが、聖書についての分かち合いをするだけで、カテキズムの教育は何も行われず、私はローマ・カトリックの教義理解について、ほぼ未熟なままで洗礼を受けることになった。それについて当時、ある信徒の方が、「最近は要理を教えない!教会がダメになっちゃう。」と言っていたのを記憶している。当時も今も継続する日本のカトリック教会におけるローマ・カトリックカテキズムの軽視と教育についての不熱心は、当時、公会議後の混乱という言い訳を加味したとしても、不自然で疑わしい出来事の一つだ。

②洗礼を受ける前の高円寺教会で聞いたことの一つは、「マリア様を最近は大事にしなくなっちゃった。」という信者さんの声だった。高円寺教会の中庭の駐車スペースにはルルドの聖母像があったが、ルルドの記念日の祝いが昔に比べると縮小されてしまったと嘆くご老人がいた。これについても、公会議後の混乱が原因と加味しても、今振り返って疑わしいローマカトリック教義の軽視の実態の一つだと言える。一つ言えることは、当時から高円寺教会は若者の活動が盛んであり、その後に起きていく晴佐久神父による青年活動の母体となっていくが、当時、若者たちの中には、聖堂でロザリオを祈る老婆を「気持ち悪い」などと言ってしまう傾向が生まれており、カテキズムの不教育が生んでいく負の連鎖の始まりを告げていたと感じる。これらが意図的に誘導されて行われていた疑いを私は今振り返って感じている。

③私はその後、仕事の関係で世田谷区の三軒茶屋教会に行くようになり、フランシスコ会ローマ管区のイタリア人修道司祭たちに初めて出会った。ここで、在世フランシスコ会に参加し、山谷のパトロールなどにも加わって、フランシスコ会との関係を深めていった。ここで体験したローマ・カトリックの真心と素直な信仰教義教育は、その後の私の信仰生活と人生の歩みに大きな土台を据えることとなった。フランシスコ会ローマ管区のイタリア人司祭たちに心から感謝する。しかし、この三軒茶屋教会でも、いくつもの不審な出来事を体験している。まず、主任司祭のジョバンニ・プッチ神父が、私と二人だけの時には、とても日本人たちに対して怒っていて、いら立っている印象だったことを記憶している。プッチ神父は非常に素朴なイタリア人の感性を持った司祭であり、明るく、とてもオープンに気持ちを表現する傾向があった。私はプッチ神父のそのような堅苦しくない雰囲気が好きで、2人だけの時にはいつも素直に気持ちを話していた。そのプッチ神父が、周りを囲む日本人信徒や、あるいはフランシスコ会の日本人司祭たちに、とてもいら立っている印象があったのだ。何が原因かは当時はわからなかった。こんな素晴らしい献身的な宣教師をいら立たせる何があったのか?当時はプッチ神父が性格的に未熟なのではとも感じてしまったが、今振り返れば、実態はそうではなく、日本人司祭たちと日本のカトリック教会、そして日本社会からの執拗で巧妙な嫌がらせと妨害を感じて(それは霊感においても、そして社会的体験においても感じていたに違いない。)、いら立っていたのであろうことが推測される。それほどに、私が日本の教会で体験したことは疑って余りあることばかりだ。

④私が三軒茶屋教会の在世フランシスコ会から、山谷の山友会(現NPO)という困窮者支援施設のボランティア活動に参加していた時期、山谷にはフランシスコ会の相談室があり、中谷功神父が常駐していた。そして、中谷神父と共同生活をする中嶋儀一氏というSWを担当する信徒がおり、この中嶋さんは、実は神の愛の宣教者会の男子会に志願したが、折り合わなくて退会した男性であった。中嶋さんは、山友会のSWもしていた。私がフランシスコ会ローマ管区の教会で学び、山谷でのボランティアをし、また、在世フランシスコ会の若者たちの集まりであるヤングフランシスカンという集まりのために、コンヴェンツアル・フランシスコ会(聖母の騎士)の関町修道院などで集っていた時期、私はフランシスコ会に入ることを志した。フランシスコ会に入る前の一年間、私は山友会の常駐スタッフをしていた。この時期、中嶋儀一氏から奇妙な話を何度も聞いた。それは、「フランシスコ会はよくない会だから、行かないほうがいい。他を探したほうがいい。」このような勧めは何度もあった。中嶋さんはマザーテレサの精神に感服している北海道出身の信徒であり、また同居する中谷功神父は、どちらかと言えば、左派の司祭であり、後述するフランシスコ会の第二共同体問題の渦中にいて、会の中心を離れた司祭だった。二人の間には信仰理解の面での差異はあったが、同居していた。中谷神父は「フランシスコ会を勧めはしないが、行っておいで」と言っていた。私はフランシスコ会との関わりで出会った素晴らしい外国人宣教師たちとの出会いの中で、フランシスコ会がひどい状態だとは想像がつかなかったので、迷わずに志願したのだった。しかし、結果はブログ記事「秋田のしるしが置かれた国で」で書いた通りである。この当時、私が知らなかったフランシスコ会の分裂事件である第二共同体問題は、今、振り返って、「日本人が仕掛けた妨害・破壊戦略」ではなかったかと疑っている。これについては各論で詳細を書きたい。

⑤フランシスコ会に入ってからの体験については、ブログ記事「秋田のしるしが置かれた国で」についての各論で詳細を解説するが、今まで書いていないことを列挙すれば、志願期に訪れた長崎県の本原教会のフランシスコ会修道院で、当時の主任司祭だった戸村神父が、となりにあるオプス・デイの精道学園を煙たがって「あいつらはローマの言うことしか聞かない。迷惑な連中だ。」などと言っていたことを記憶している。これに、同居していた修道士も同調していた。何があったかはしらないが、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が側近に多数採用していたオプス・デイのことをこのようにいうことは不穏当なことであったと振り返って感じる。日本のカトリック教会についての疑わしい出来事のひとつだ。この本原教会共同体には、高齢になってフランシスコ会に転向した中田藤太郎神父(長崎教区司祭、浦上の戦後の指導者のひとり)も一緒に暮らしていたと記憶している。

⑥また、フランシスコ会では、大阪・生野区での志願期に不審な兄弟が北浦和教会から入会してきたことは「秋田のしるしが置かれた国で」に記録している。この兄弟は県立浦和高校卒業生で英語の塾講師であったが、志願期に皆で韓国に行った際、2週間の日程の期間、突然一度もシャワーに入らずに過ごし、悪臭を放ち、皆に迷惑をかけた。あまりにも不審な出来事であった。この人物は帰国後にすぐにシャワーを浴びていつも通りに生活を始めたが、修練期に入る時に退会した。韓国と在日・滞日韓国朝鮮人の方々と親しく近づいているフランシスコ会と、朝鮮半島に対する何らかの嫌がらせが目的だったのではないかと思う。

⑦修練期に入って、北浦和の修練院に入った。一つ記憶しているのは、当時の浦和教区長であった岡田武夫司教が、時折自転車で浦和カテドラルから訪問に来たことだ。私が記憶していることの中で疑わしい出来事の一つは、私ともうひとりの修練者、古里慶史郎氏(現在司祭)と、長谷川潤神父の三人で援助会修道院を訪問し、岡田司教を交えて食事をした時のことだ。岡田大司教は食事の際に、「オプス・デイはローマの政治だから気を付けなさい。」と言った。古里君も、長谷川神父も、援助会のシスターたちも聞いていたと思う。前述したように、オプス・デイは聖座に忠実を示す新しい信徒団体であり、聖ヨハネ・パウロ2世教皇が混乱する世界の中でとても信頼しておられたグループであった。そのオプス・デイに対して日本の東京大学を卒業した岡田司教が疑い、養成期にある私たちにこのような発言を伝えることは、ある種の政治的な対策の洗脳か、あるいは私たちへの思想調査であったのではないかと思う。実に疑わしい出来事だ。私はローマ管区のフランシスコ会のイタリア人宣教師に育てられたので、この岡田司教の発言は甚だ理解できなかったが、当時は何も言えなかった。それは日本のカトリック教会の権威への態度についての慣習を考えれば、やむ負えないことだった。

岡田司教についていえば、実は、私が最も信頼するカトリック信者の先輩の一人が次のようなことを話してくれたことがある。「秋田の聖体奉仕会の最初の指導司祭であった望月光神父が、“岡田武夫神父が司教になったら日本の教会は終わってしまう”と話していた。」と。これはどういうことだろうか、望月光神父は、安田貞治神父が聖体奉仕会に来る前に、聖体奉仕会を霊的指導していた司祭である。ローマへの留学経験もあった。その望月神父が岡田武夫神父を疑った理由は何なのだろうか?東大卒、プロテスタントから転向した岡田武夫司教は、第二バチカン公会議後の教会で、将来有望だと言われるのが自然だったのではないか?それなのに、なぜ、望月神父はそのようなことを言ったのだろうか?私の体験から考えても、当時、望月神父のようなローマに忠実な司祭たちの中で、何か疑いが起きていたことは確かだったろう。この件について証言してくれたカトリックの私の先輩信者は、名前を伏せるように言われているので、証言者の名前は書けない。しかし、ローマ・カトリックに対する私自身の責任として、私が最も信頼する誠実なカトリック教徒のひとりであることをお伝えしておく。

⑧ブログ記事「秋田のしるしが置かれた国で」、「日本よ、神のいつくしみの門へ向かいなさい」、および「終わりの預言者として」で記録した通り、私は修練期に不審ないじめを受けて、結局退会することになるが、この時に私に執拗な嫌がらせを続けたのは、右翼思想を持つ初老の修道士だった。彼は左派ではなく、むしろ右派だった。この北浦和修道院には、菅澤神父と言う長老とも言えるフランシスコ会司祭が一緒に暮らしていたが、彼は戦後の焼け野原の東京で銀座三越の屋上に建てられていたカトリック銀座教会で洗礼を受けた帰還兵であった。田園調布教会を担当した後、北浦和に来て生活していた。この菅澤神父は、一緒に暮らさないと気づけないことであったが、戦前戦中の皇国思想を温存している右翼的な司祭であった。彼が右翼思想を敬愛していることは生活の中でたびたび聞かされた。彼が所有している皇国思想的な書籍も見せてもらった。彼は私に嫌がらせをすることはなかったが、それがかえって私にとっては疑いのもととなっている。

当時のフランシスコ会は、本田哲郎司祭とそれに同調した左派フランシスコ会士たち、神学生たちによって第二共同体が形成されて分裂を起こした後だっただけに、右派と左派と言える司祭たちの分裂の傷は痛ましいものだった。外国人宣教師たちはそのようなイデオロギー的な立場はとりづらく、私と同じように本来中道であったのだから、外国人フランシスコ会士たちが当時どれほど悲しみ、苦しんでいたか想像できる。日本人のフランシスコ会が右派と左派に分裂したことも、私にとっては、この分裂劇そのものが、極めて疑わしい日本社会の出来事の一つであると言える。

記述してきた通り、私がフランシスコ会を退会するまでに体験した出来事の数々は、右派の妨害だ、とか左派が中身をおかしくしている、とか単純に言えるものではなく、保守とレベラルの衝突などと言うイデオロギー的、社会的な単純な識別で済ませることはできない問題だと疑っている。つまり、それは、「日本のカトリック教会および日本社会 対 グローバルな意味でのローマ・カトリック」という図式でしか私の体験を正しく整理していくことができないのだ。

ここに、私が日本社会と日本のカトリック教会の極めて巧妙な悪だくみの存在を疑う理由がある。

(総論① 疑い-2 に続く)

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